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田中 新兵衛(たなか しんべえ、天保3年(1832年) - 文久3年5月26日(1863年7月11日))は、薩摩藩士。諱は雄平。尊王攘夷派で、幕末の四大人斬りの一人。 == 人物 == 元々は武士の生まれではなく、鹿児島の伝承では薩摩前ノ浜の船頭の子(または薬種商の子)と言われる。史料で島津家一門の島津織部家臣、つまり、薩摩藩では私領士という陪臣身分とされているが、これは鹿児島城下屈指の豪商で、尊皇攘夷の士でもあった森山新蔵〔薩摩藩は莫大な借金を抱えていて、幕政改革を行った調所広郷は、藩の負債を返済しない代わりに商家に様々な便宜を図ったが、士分の取立てもその一つ。新蔵の息子の森山新五左衛門は寺田屋事件の蜂起藩士の1人で切腹を命じられた。誠忠組の財務担当だった新蔵は西郷隆盛と共にそれより前に帰藩を命じられており、遺体に面会もできずに割腹して後追い自殺をした。〕が、士分の株を買い与えたからで、成り上がり者と呼ばれ本人も商人から士分になった森山の持ち船の船頭であったと言われる。 新兵衛は幼少期より武芸に励み、剣術に優れていた。流派は厳密には不明である〔伊藤政夫 編 「野太刀自顕流-薬丸流-」は、門弟の名に田中の名は見えないが、森山新蔵に薬丸自顕流を学んだ可能性があると推測する。〕が、城下で育っていることから、一般的には示現流の分派のなかのどれかと考えられている。 文久2年(1862年)5~6月〔寺田屋事件後。〕に上京。海江田信義や藤井良節(藤井良蔵)の元に身を寄せた。そこに小河弥右衛門が安政の大獄で長野主膳に協力した島田左近が伏見にいると知らせてきたので、これを6名で暗殺しようとしたが失敗。新兵衛はその後1ヵ月間、左近を付け回し、7月21日、京都木屋町で襲撃。逃げる左近を加茂川の河原まで執拗に追いかけて斬首し、先斗町でさらし首とした。 8月、小河の仲介で、土佐勤王党の武市瑞山と引き合わされ、武市と義兄弟の契りを結んだ。以後、新兵衛は岡田以蔵などと徒党を組み、暗殺を示唆された相手を次々と手にかけるようになった。本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを集団で襲って暗殺したと言われている。 文久3年(1863年)8月21日、朔平門外の変で姉小路公知が複数名に襲撃されて暗殺された。この事件の現場で投げつけられ、残されていた刀が新兵衛の愛刀であり、薩摩下駄も残されていたことによって、新兵衛が犯人と断定されて仁礼源之丞等と共に捕縛された(通説では刀は数日前に盗まれたものというが信憑性は不明)。新兵衛が負っていた傷も生き残りの証言と一致していた。 町奉行の永井主水正は、新兵衛を尋問しようとしたが、新兵衛は一言も発せず、隙をついて脇差を抜いて割腹、返す刀で喉の頸動脈を突いて即死した〔「人間臨終図鑑」、山田風太郎、徳間書店、1986年、P7。〕。そのため供述は得られなず、襲撃の手際の悪さ、絶命させられずに逃がしてしまったこと、公知と武市との良好な関係など、不審な点が幾つかあり、新兵衛が実行犯だったのかどうか真相に疑問が持たれている事件である。しかし死体を検分した事件の生き残りも新兵衛に間違いないと証言したことなどから、近年の研究ではやはり新兵衛が実行犯であったという説の方が有力である〔町田明広『幕末中央政局における朔平門外の変-その背景と影響について-』(「日本歴史」第713号所収)等〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中新兵衛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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