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田中 有美(たなか ゆうび、1840年1月4日(天保10年11月30日)〔デジタル版 日本人名大辞典+Plus 〕〔有美の生年については文献資料によって、天保10年、11年、14年と複数ある。〕 - 1933年(昭和8年)3月20日)は、明治から昭和初期にかけて活躍した日本画家。復古やまと絵の冷泉為恭の弟子。生前から展覧会など公共の場にはあまり作品を出品せず、今日では田中親美の父として僅かに言及される程度であるが、明治から大正にかけて皇室に関わる重要な作画活動を数多くこなした、最後の宮廷絵師といえる存在である。 == 略伝 == === 生い立ち === 山城国相楽郡加茂町付近(現・京都府木津川市)で、代々庄屋を務めた旧家に生まれる。本名は茂一。幼少より国学を大国隆正に、漢籍と書道を貫名海屋に習う。その後、母方の従兄弟に冷泉為恭がいた影響で絵師を志す。為恭に連れられて御所の絵所に通ううちに、幼少時の明治天皇の遊び相手になったという。無論、絵の修業にも励み、師の古絵巻の模写を手伝いながら、古画を学習していった。公家の三条実万は為恭の庇護者だったが、有美も実万とその子・三条実美と密接な繋がりを持ったようだ。安政年間の御所造営に伴う障壁画制作では、図画の取り調べや襖の補修を行ったという。絵事のみにとどまらず、後の1901年(明治34年)有美が叙位する際の推薦理由書には、安政年間実万が尊皇攘夷派として国事に奔走していた頃、有美は実万の密使として同士の公卿に伝達するなどして実万の活動を助けた、と記されている。安政の大獄で実万が謹慎・出家させられた際にも、有美は絵師という立場のお陰で嫌疑を回避でき、以降は三条実美のもとで引き続き国事に奔走したという。 明治維新後もしばらくは京都に残り、絵師として活動を続けた。1878年(明治11年)春には正倉院宝物を臨模し、翌年には兵庫県の画工教師を拝命したという。1980年(明治13年)に京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)が開校すると、有美も1982年(明治15年)東宗(大和絵)所属の校員(教員候補のような立場の画家)として勤めた。同年の農商務省主催内国絵画共進会に「義家見行図」「小野小町歌意」「草花ニ虫類」の3点を出品し褒状、1884年(明治17年)第二回内国絵画共進会でも「虫撰」「白鷺」の2点を出品して再び褒状を受ける。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中有美」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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