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田中 清一(たなか せいいち、1892年(明治25年)9月3日 - 1973年(昭和48年)11月27日)は、日本の政治家、実業家。 福井県大野郡和泉村(現 大野市)に生まれる。父は浄土真宗の僧侶だった。村の小学校を卒業後大阪に出向き、鉄工所に勤務、製材用機械の製作所を興し、昭和の始めに静岡県沼津市に移転、株式会社化した(現在の株式会社富士製作所)。実業家となった直後に太平洋戦争が勃発し、岐阜県岐阜市金華山に軍部のトンネル工場を建設するも未完のまま終戦を迎えた。 敗戦直後の1947年(昭和22年)に、食糧自給自足を目標とする「平和国家建設国土計画大綱」をまとめ、日本政府と連合国軍総司令部 (GHQ) に提出するなど各方面に働きかけた。連合国軍総司令官マッカーサー元帥に直訴したり、1949年(昭和24年)には昭和天皇に自らの構想を披露するなどの活動を行った。 また、戦後日本の普遍的な国土開発を目指し、一私人でありながら私財を投じて国土改造計画の立体模型製作などを行い、その中心的活動として高速道路計画である「国土開発縦貫自動車道構想」(田中プラン)を立案・実現に移した。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙で当選し参議院議員となる。勲二等瑞宝章、藍綬褒章を受章。 現在、東名高速道路・沼津インターチェンジの一般道側出入口には、彼の銅像が立てられている。 == 国土開発縦貫自動車道構想 == 国土開発縦貫自動車道構想は、戦後の日本国土の普遍的開発を図ることを目的に、そのためのインフラ整備として全国にネットワーク的な道路網を形成するという、田中が起案した開発構想のことである。 具体的な道路構成の基本的考え方は、最初に本州の中央山地部を縦貫する幹線自動車道を建設し、この幹線道路から海岸に向かって肋骨状に連絡道路を建設するというもので、戦前に内務省が構想しながらも戦時下で頓挫した「自動車国道構想」に代わるものであった。内務省の「自動車国道構想」は、国防的見地から、海岸沿いに幹線道路をループ状に設けて必要箇所に横断道路を建設するというものであったが、田中の構想は、これとは対極的に位置する考え方であった。 田中の縦貫道構想は、戦後日本の高速道路建設計画が具体化するきっかけとなり、瀬戸山三男や青木一男ら当時の有力国会議員の支持を受けて、1953(昭和28年)年には「国土建設推進連盟」が結成され、さらに同年5月には「国土開発中央自動車道事業法案」(現在の中央自動車道)が議員立法されるまでに至った。田中自身も、1959年(昭和39年)に参議院に立候補して当選し、自ら国会議員として縦貫道構想の実現に奔走した。構想自体は具体的なルート問題で理念に走りすぎて現実にそぐわない面もあったが、中国自動車道など構想通り実現された道路もあり、日本の高速道路網の発展に大きく貢献することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中清一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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