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田中 眞紀子(たなか まきこ、1944年(昭和19年)1月14日〔外務大臣 田中 眞紀子 〕 - )は、日本の元政治家。通常は田中真紀子と表記されることが多い。 父は第64・65代内閣総理大臣の田中角栄。1969年に田中直紀(後に自由民主党衆議院議員、民主党参議院議員)と結婚した〔。 衆議院議員(6期)、科学技術庁長官(第52代)、外務大臣(第131代)、衆議院文部科学委員長、衆議院外務委員長、文部科学大臣(第17代)等を歴任した。 == 来歴・人物 == 東京都文京区に父・田中角栄、母・はなの長女として生まれる。本籍地は新潟県柏崎市。千代田区立富士見小学校、日本女子大学附属中学校・高等学校を卒業し、早稲田大学商学部へ進学。早大在学中は演劇サークル劇団木霊に所属し、同期には久米宏や長塚京三がいた。大学卒業後は劇団雲に所属し、女優として舞台に出演するが、結婚を機に引退。母が病弱であったことや、高校時代のアメリカ留学経験もあり、父・角栄が首相在任中は事実上のファーストレディの役目を担った。ただし子供の頃や政界入りする前は角栄と対立する事も多く、進学先や田中直紀(旧姓:鈴木)との結婚などは角栄の反対を押し切り決めたという。 1993年の衆院選で初当選、翌1994年に1年生議員ながら村山内閣の科学技術庁長官として初入閣して話題を呼んだ〔1年生議員の入閣は1957年発足の第1次岸内閣改造内閣で法務大臣となった唐沢俊樹以来、37年ぶりだった〕。その後も国民的な人気を保ったが、与党内野党的な自由な立場からの奔放な発言が人気の源泉であり、政治家として目立った実績を残したわけではなかった。教育実習にボランティア活動を義務化させる提案をし実現させ物議を醸した事もある。しかし2001年の小泉内閣誕生に際しては総裁選での応援を買って出るなど大きく寄与、自ら外相に就任して異例の高支持率を獲得。実務においては様々なトラブルを引き起こし外交が機能不全に陥るほどだったが、人気は衰えなかった。 ターニングポイントとなったのが2002年の事務方との対立に起因する外相更迭であり、当時は世論の圧倒的多数が更迭に反対して田中を支持、小泉内閣の支持率が一時的に急落するほどであった。しかし直後に自らの秘書給与問題が浮上し、議員辞職に追い込まれる。2003年衆院選で復帰し、院内会派「民主党・無所属クラブ」に加入。今度は以前に所属していた自民党に対して厳しい批判を繰り返すようになった。 衆院選を目前に控えた2009年8月15日、新潟県長岡市内で記者会見し、夫の田中直紀参議院議員とともに民主党入りを表明。民主党入りの理由について「確実に二大政党(の時代)になる。有権者に約束してきたことを実現するためには、組織に所属しなければならない」と述べ、選挙後の入党という選択肢については「それでは有権者に対して失礼」と否定した。鳩山由紀夫民主党代表は「夫婦そろっての民主党入党を心から歓迎する」と述べた。 同年9月の鳩山由紀夫内閣の成立に伴い、衆議院文部科学委員長に就任。 2011年6月の菅内閣不信任決議案(菅おろし)で党議拘束に違反して棄権したため、民主党執行部から3ヶ月の党員資格停止処分が下された。なお、国会の役職については解任しない旨が民主党執行部から通達されたため、衆院文部科学委員長の職には留まった。党員資格が停止されたため、2011年民主党代表選挙では投票権が与えられなかった(野田佳彦財務大臣が当選)。同年9月の野田内閣の成立に伴い、衆議院外務委員長に就任。 2012年6月26日の消費税増税法案には、小沢一郎や鳩山由紀夫らが反対票を投じ、小沢は自身のグループに所属する議員の大半を率いて離党、国民の生活が第一を結党したのに対し、田中は賛成票を投じ、造反の動きに同調しなかった。以前から田中は「反・野田」のスタンスに軸足を置いていたが、2012年9月民主党代表選挙では一転して野田首相の再選を支持し、野田陣営に参加している。同年10月、野田第3次改造内閣で文部科学大臣に任命され、2001年に発足した第1次小泉内閣以来、約11年ぶりに3度目の入閣を果たした。 同年11月、2013年春に新規開校を予定していた大学3校の不認可を示唆。3大学は、文部科学省の諮問機関である大学設置・学校法人審議会の認可を受けており、文部科学大臣が審議会の判断を覆すのは極めて異例で、田中は不認可の理由について「大学が多すぎ、質が低下している」と説明したことから〔田中文科相考え直して…編入希望絶たれた短大生 YOMIURI ONLINE(2012年11月3日14時38分 読売新聞)〕、関係各所を巻き込んだ騒動に発展。この3校以外に同時期に認可の申請が出された既設大学の16学部、13の大学院を認可したことに続き、結局、文部科学省は11月8日、新規3校についても正式に認可した。 12月16日に執行された第46回衆議院議員総選挙では、父の時代からの強固な地盤だった新潟5区では一位とは三万票近い差をつけられ次点で落選し、比例復活もならず議席を失った。父・角栄の死去から丁度19年になる命日での出来事であった〔落選の田中真紀子氏「私の努力不足」 対立陣営「時代の終わり」 MSN産経ニュース 2012年12月17日〕。「この地域に責任がある」と発言し、政界引退は否定した。 2014年11月、第47回衆議院議員総選挙に出馬しない意向を示した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中眞紀子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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