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田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、日本の女優、映画監督。 黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。小津安二郎、五所平之助、溝口健二、成瀬巳喜男、清水宏、木下惠介ら大物監督に重用され、約260本の作品に出演した。14歳で松竹に入社し、清純派スターとして人気を得て、松竹の看板女優となった。戦後は年齢を経るに従って演技派として成長し〔新撰 芸能人物事典 明治~平成「田中絹代」の項 〕、脇役を演じることが多くなるも円熟した演技を見せ、晩年は『サンダカン八番娼館 望郷』の演技でベルリン国際映画祭最優秀主演女優賞を受賞した。主な作品に『マダムと女房』『愛染かつら』『西鶴一代女』『雨月物語』『煙突の見える場所』『楢山節考』『おとうと』など。また、映画監督としても6本の作品を残している。 ==来歴== === 生い立ち === 1909年(明治42年)11月29日、山口県下関市関後地村〔『日本映画俳優全集・女優篇』p.426〕(現在の下関市丸山町)に父・久米吉と母・ヤスの四男四女(長男慶介、次男鼎、長女繁子、次女政子(早世)、三女光代、三男晴男、四男祥平、四女絹代)の末娘として生まれる。母の実家・小林家は下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた〔古川薫著『花も嵐も 女優・田中絹代の生涯』p.17-22〕。久米吉はそこの大番頭であったが、絹代が生まれた頃には呉服商を営み、貸し家を20軒も持っていた〔。1912年(明治45年)1月に久米吉は病死し、その後母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。 6歳の頃、母が共同出資していた実家の兄・小林保太郎の造船事業が次々と失敗したため両家とも倒産してしまう〔。1916年(大正5年)4月、下関市立王江尋常小学校に入学するが、はしかに罹り、ほとんど出席しないまま1学期を終えてしまう〔。さらに20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪〔 したことで一家は後ろ指を指されることになり、更に経済事情が悪化。ついに一家の生活も行き詰まってしまい、同年9月に保太郎を後見人に、母と兄3人、姉1人とともに大阪市天王寺村(現在の天王寺区)へ移住した〔。ところが、絹代は肺炎に罹り学校へも通えず1年半、療養生活を送った〔。この間に華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡している〔『激動の昭和を生きる』p.119〕。 1918年(大正7年)4月、保太郎が家庭教師になって猛勉強したおかげで、天王寺尋常小学校3年に編入される〔。幼い頃から琵琶を習っていた絹代は筑前琵琶の宮崎錦城に弟子入りし、1919年(大正8年)に免許を受けて田中錦華の名を貰うが、授業中に琵琶の教本を読んでいたのが見つかり罰で校庭に立たされ、級友に笑われた恥ずかしさと口惜しさから学校をやめてしまう〔。翌1920年(大正9年)、錦城が組織した琵琶少女歌劇に加わり〔『写真集日本の女優 銀幕に咲いた美しいスターたち』p.45〕、楽天地の舞台に立つ〔今村昌平著『無声映画の完成』p.12〕。そのうち楽天地にある映画館に出入りし、栗島すみ子主演の『虞美人草』に感激したり、子役の高尾光子に憧れるうちに映画女優を志す。絹代を琵琶の師匠にと考えていた母に猛反対されるが、1923年(大正12年)に歌劇団が解散したこともあり、保太郎の説得で女優になることを許可された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中絹代」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kinuyo Tanaka 」があります。 スポンサード リンク
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