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田中 河内介(たなか かわちのすけ、文化12年(1815年) - 文久2年5月2日(1862年5月29日))は、幕末の青侍で、尊王攘夷派志士である。儒学者および漢学者。名は綏猷(やすみち)、字は士徳。恭堂や臥竜と号した。幼名は賢次郎。 寺田屋騒動後という幕末の騒乱の早い段階で非業の死を遂げるが、明治天皇の4歳になるまでの教育係で、大変慕われていたことが明治時代になってから一般にも知られるようになって有名になった。 == 略歴 == 但馬国出石郡香住村(現兵庫県豊岡市)の医者小森正造の次男として生まれた。幼少から秀才として知られ、出石藩侍講の儒学者井上静軒に師事した。武芸も嗜み、特に弓道を得意とした。 天保6年(1835年)、儒学者になるために上京して勉学に励み、やがて私塾を開いた。天保11年(1840年)、公家中山忠能に召されて仕えることになり、同家の世臣である諸大夫田中近江介綏長の養子となった。後に養父より諸大夫を引き継ぎ、弘化2年(1845年)に従六位、河内介に叙された。 河内介は、中山家では庶務を仕切り、忠能子息の中山忠愛、中山忠光の教育係でもあった。嘉永5年(1852年)、忠能の娘で典侍の中山慶子が孝明天皇の子(後の明治天皇)を身ごもった降誕の際には、大任を任され、(実家中山邸内)御産殿の建設を指揮したほか、教育係ともなって自ら背負って孝経を口授したという。祐宮が儲君となって皇居に入り、親王宣下を受けた後は、河内介は職を辞すことになり、中山邸より出て川端丸太町の私邸を「臥竜窟」と名付けて隠棲した。これは幕政に批判的であった河内介が、公武合体派の忠能と意見を異にし、特に和宮親子内親王の降嫁に強く反対していたためと言われる。 京都で勤王の志士とまじわるようになり、筑前久留米藩出身の中村貞太郎(北有馬太郎)と義兄弟の契りを結び、中村と親交のあった同藩出身の真木和泉や、浪人清河八郎などの尊皇攘夷派と親しくした。すると幕府の目が厳しくなったので出奔し、大坂に居を移した。薩摩藩邸に出入りして柴山愛次郎、橋口壮介らと語らい、小河弥右衛門(岡藩)、吉村虎太郎(土佐藩)、平野国臣(福岡藩)、真木らと謀って、島津久光の上洛と合わせた義挙を準備した。これが寺田屋騒動で、和宮降嫁を仕切った京都所司代・酒井忠義と関白・九条尚忠を暗殺する計画であった。 計画は未遂に終わって河内介らは投降したが、薩摩藩は保護の名目で鹿児島に護送すると言いくるめ、日向細島へ向かう航海の途中、播磨灘で息子田中瑳磨介、甥千葉郁太郎、ほか同志と共に斬り捨てた。遺体は海に投げ捨てられ、無残な亡骸は小豆島の福田村に漂着し、村民によって葬られた。このため同村には田中河内介の墓碑がある。 維新の後のある時、明治天皇は昔の養育係を思い出し「田中河内介はいかがいたしたか」と臣下に尋ねたことがあった。誰も答えられないでいると、小河一敏(弥右衛門)が進み出て「ここにおられる某君等が指図して、薩摩へ護送の際に同志に刺殺され、船中において非業の死を遂げました」と答えて、その場にいた大久保利通〔島津久光側近で、騒動の始末をつけた責任者の1人。〕らを暗に批判した。寺田屋騒動で亡くなった志士は後に全員賞され、河内介は贈正四位となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中河内介」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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