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田中 美一(たなか よしかず、1938年 - 2012年2月23日)は、神奈川県横浜市出身のアマチュア野球審判員。六大学野球、都市対抗野球大会、春夏の甲子園などの大試合で球審を任され、「ミスター球審」と呼ばれた〔「第68回都市対抗野球 最高の決勝を演出 「ミスター球審」健在--田中美一さん」、毎日新聞 東京朝刊、1997年7月29日、30頁。〕。 == 経歴 == 小学4年生の時から野球を始め、中学、神奈川県立希望ヶ丘高等学校時代は投手だった〔「この人 アトランタ五輪野球審判員 田中美一さん」、中国新聞 朝刊、1996年7月22日。〕。高校時代は投手・4番で2、3年次に県ベスト4という活躍を見せる〔「アトランタ五輪で「最高のジャッジを」 日本野球連盟、横浜の田中さん」、産経新聞 東京夕刊、1996年7月9日、3頁。〕。 立教大学に進むも、1年から2年に上がる春のキャンプで他の選手の打球を右足首に受けて骨折〔。その後は伸び悩み、リーグ戦で投げることはできなかった〔。日本通運浦和に就職後、捕手に転向〔「田中美一さん アトランタ五輪で野球の審判(顔・かお) /神奈川」、朝日新聞 東京地方版/神奈川、朝刊、1996年6月8日。〕し、4年で社会人野球を辞めた後は横浜市にある実家の材木店を継いだ〔。 その後は野球を離れていたが、7年後の1970年に立教大学の先輩から、六大学野球の審判員に欠員が出た〔ため、神宮球場で審判をしてほしいという誘いがあり、受託〔。その後、高校野球、社会人野球でも審判を務めるようになる。 1988年、国際野球連盟の国際審判員の資格を取り、世界選手権などでも審判を務めた〔。独学で英語とスペイン語を習得する〔。 福岡ユニバーシアード、第18回アジア野球選手権大会でチーフを務めて力量が高く評価されたことにより、1996年2月7日、国際野球連盟の1995年度最優秀審判(アンパイア・オブ・ザ・イヤー)に日本人で初めて選出された〔「野球 最優秀審判に田中美一氏を選出--国際野球連盟」、毎日新聞 東京朝刊、1996年2月8日、21頁。〕〔「[グリーンプラザ]崇高な精神に手薄い対応」、読売新聞 東京夕刊、1996年2月9日、3頁。〕〔「奇跡の背景にあったもの 球審・田中美一氏のもう一つの「奇跡」」、DVD映像で甦る高校野球不滅の名勝負Vol.6『矢野勝嗣が「奇跡のバックホーム」。夏将軍・松山商27年ぶり頂点へ。』、ベースボール・マガジン社、2014年12月2日発行・発売、16-17頁。〕。 1996年7月19日から8月4日まで開かれたアトランタオリンピックでは、野球審判員として日本人でただ1人だけ選ばれた〔〔〔〔「アトランタ五輪 夢の五輪で正確ジャッジ 野球審判で参加27年目の田中さん」、読売新聞 東京夕刊、1996年7月16日、3頁。〕。日本人で野球審判員に選ばれたのは、ソウルオリンピック、バルセロナオリンピックに参加した布施勝久に続いて2人目である〔「シドニー五輪あす開幕 日本ただ1人の野球審判員・小山さん=神奈川」、読売新聞 東京朝刊、2000年9月14日、35頁。〕。 1999年から2000年には日本野球連盟規則・審判専門委員長を務めた〔「訃報:田中美一さん 74歳=日本野球連盟参与」、毎日新聞 2012年2月25日 東京朝刊、21頁。〕。 2012年2月23日、心不全のため死亡、74歳没〔〔「田中美一さん死去」、朝日新聞 東京朝刊、2012年2月24日、24頁。〕〔「[訃報]田中美一氏 74歳 元アマチュア野球審判」、スポーツニッポン、2012年2月24日、6頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中美一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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