翻訳と辞書
Words near each other
・ 田中美穂
・ 田中美絵子
・ 田中美緒
・ 田中美羽
・ 田中美菜子
・ 田中美衣
・ 田中美都子
・ 田中美里
・ 田中美音子
・ 田中美麗
田中義一
・ 田中義一内閣
・ 田中義一政権
・ 田中義三
・ 田中義久
・ 田中義人
・ 田中義剛
・ 田中義剛のオールナイトニッポン
・ 田中義広
・ 田中義忠


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

田中義一 : ミニ英和和英辞書
田中義一[たなか ぎいち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [いち]
  1. (num) one 

田中義一 : ウィキペディア日本語版
田中義一[たなか ぎいち]

田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日元治元年6月22日) - 1929年昭和4年)9月29日)は、日本陸軍軍人、政治家階級陸軍大将勲等勲一等功級功三級爵位男爵
陸軍大臣貴族院議員内閣総理大臣第26代)、外務大臣第42代)、内務大臣第45代)、拓務大臣初代)などを歴任した。
== 生涯 ==

=== 軍人として ===

萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという。
13歳で萩の乱に参加。
若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。
日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。
1910年明治43年)、在郷軍人会を組織した。
1915年大正4年)、参謀次長原内閣第2次山本内閣陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。
1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。さらに追い打ちをかけたのは、問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めてしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田中義一」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.