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田中義剛のオールナイトニッポン : ミニ英和和英辞書
田中義剛のオールナイトニッポン[たなかよしたけのおーるないとにっぽん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
: [ぎ]
 【名詞】 1. justice 2. righteousness 3. morality 4. honour 5. honor 
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

田中義剛のオールナイトニッポン : ウィキペディア日本語版
田中義剛のオールナイトニッポン[たなかよしたけのおーるないとにっぽん]
田中義剛のオールナイトニッポン(たなかよしたけのオールナイトニッポン)は、ニッポン放送制作の深夜放送オールナイトニッポンで放送されていたラジオ番組
1987年7月4日から1989年4月8日まで、土曜2部(毎週土曜日深夜27:00~29:00)においてNRN系19局ネットで放送されていた。
==概要==
パーソナリティを務めた田中義剛は、以前より北海道では歌手シンガーソングライター、また、ラジオパーソナリティとしても『アタックヤング』『サンデージャンボスペシャル』(いずれもSTVラジオ)で、それなりに名を馳せたローカルタレントであった。しかし、全国区にはまだ到底及ばずにいた。オールナイトニッポン出演は田中にとって東京、全国に進出するきっかけの一つとなったものでもあった。
番組のキャッチフレーズは「真夜中のカウボーイ 田中義剛のオールナイトニッポン」。その本人のタイトルコールも「オールナイトッポン」と訛っていたようなものが特徴的だった。1部と違って2部にスポンサーは無かったが、オープニングでは毎回「以上各社の協賛で、全国の田舎者を結んでお送りします」と言っていた〔月刊ラジオパラダイス 1988年7月号特集「これが史上最強のオールナイトニッポン2部だ」より。〕。なお田中は本番組が始まっても東京に移り住むようなことはせず、毎週放送のある日に札幌から東京に来て、放送が終わると、当時レギュラーだった『サンデージャンボスペシャル』の出演のためにすぐ札幌に戻るという生活をしていた。ただ「出演料は一回3万円」だったものの交通費は出なかったため、この時から赤字生活となり〔当時の羽田空港 - 新千歳空港間の航空運賃は往復で4万円台前半が相場だった。〕、住んでいた札幌のアパートは電気ガス水道も費用が払えず全て止められたという〔『田中義剛の半農半芸で何が悪いっ!?』(2007年北海道新聞社)ISBN 978-4-89453-427-8 「第5章 俺が見た芸能界」より〕。
1987年のある日の放送で、局内に偶然居た高井麻巳子を無理矢理連れ込んでゲスト出演させたこともあった〔月刊ラジオパラダイス 1987年12月号 108ページ〕。
最終回当日は当時土曜日1部担当だった松任谷由実がいつも放送に使っていたレッドスカイスタジオを譲ってもらい、生放送に挑んだ(松任谷は隣のブルースカイスタジオを使用した)。自分の持ち歌や「人間なんて」などをカバーして弾き語りで数曲歌い、みのや雅彦や、田中の高校の後輩で本番組では八戸亀として出演していた十日市秀悦らがゲスト出演、番組の思い出話や田中の高校生時代などを語りながら番組を締めくくった〔月刊ラジオパラダイス 1989年6月号「グッバイ最終回特集・田中義剛のオールナイトニッポン」〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田中義剛のオールナイトニッポン」の詳細全文を読む




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