翻訳と辞書
Words near each other
・ 田中義麿
・ 田中翔
・ 田中翔大
・ 田中翔太
・ 田中翔太郎
・ 田中耕
・ 田中耕一
・ 田中耕三
・ 田中耕二
・ 田中耕二 (俳優)
田中耕太郎
・ 田中耕太郎 (競馬)
・ 田中耕治
・ 田中聖
・ 田中聖二
・ 田中聖峰
・ 田中聖美
・ 田中聖美 (バレーボール)
・ 田中聡
・ 田中聡 (プロデューサー)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

田中耕太郎 : ミニ英和和英辞書
田中耕太郎[たなか こうたろう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 

田中耕太郎 : ウィキペディア日本語版
田中耕太郎[たなか こうたろう]

田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年明治23年)10月25日 - 1974年昭和49年)3月1日)は、日本法学者法哲学者。東京帝国大学大学法学部長、第1次吉田内閣文部大臣、第2代最高裁判所長官国際司法裁判所判事、日本学士院会員。日本法哲学会初代会長。文化勲章勲一等旭日桐花大綬章を受章。大勲位菊花大綬章を没後叙勲〔日本国憲法施行後、皇族内閣総理大臣経験者を除き、唯一の大勲位菊花大綬章受章者である。また、生前に勲一等旭日桐花大綬章文化勲章を受章したのは、田中と横田喜三郎のみである。なお、栄典制度改革後は井深大が生前に文化勲章、没後に勲一等旭日桐花大綬章を受けている。〕、正二位を追贈された。
== 生涯 ==
裁判官・検察官であった田中秀夫の長男として鹿児島県鹿児島市に生まれる。父の出身地は佐賀県杵島郡北方村(現在の武雄市)。高等小学校2年次に岡山中学入学。次いで父の赴任に従って新潟中学を経て、福岡県立中学修猷館(後の修猷館高校)卒業。修猷館の同期には、青山学院院長、古坂嵓城がおり、親友であった。第一高等学校海軍兵学校の両方に合格し、父の勧めで第一高等学校へ進学。卒業後は東京帝国大学法科大学法律学科に進学。在学中の1914年(大正3年)には高等文官試験行政科に首席合格している。1915年(大正4年)、東大を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授かる。同期には、唐沢俊樹らがいた。
内務省に勤務するが、1年半で退官。1917年(大正6年)に東京帝国大学助教授となる。この頃、修猷館・一高・東大の先輩である塚本虎二の紹介で、無教会主義キリスト教内村鑑三の門下生となっている。欧米留学後、1923年(大正12年)に東京帝国大学教授に就任、商法講座を担当した。1924年(大正13年)、商法講座の前任者であった松本烝治の娘峰子と結婚し、峰子の影響によりカトリック信仰の真理性を確信するようになり、1926年(大正15年)4月に岩下壮一神父を代父として、上智大学初代学長ヘルマン・ホフマン師より受洗している。田中はカトリックへの接近に伴って、それまで必要悪とみなしていた法や国家に積極的な意味を見出して研究に意欲を燃やし、そこから商法学における画期的な「商的色彩論」および大著『世界法の理論』をはじめとする豊かな成果が生み出された。1929年(昭和4年)、法学博士の学位を授与される。1937年(昭和12年)、東京帝国大学法学部長に就任する。1941年(昭和16年)5月、帝国学士院日本学士院の前身)会員に選定される。
1945年10月には文部省学校教育局長に転ずる。1946年5月に第1次吉田内閣文部大臣として入閣。文相として日本国憲法に署名。6月に貴族院議員に就任。1947年参議院選挙に立候補し、第6位で当選。緑風会に属し、緑風会綱領の草案を作成。その後も文相として教育基本法制定に尽力した。
1950年参議院議員を辞職して、最高裁判所長官に就任。閣僚経験者が最高裁判所裁判官になった唯一の例である〔最高裁判所裁判官就任後に閣僚に就任した例は高辻正己1973年から1980年まで最高裁判所裁判官に在任し、1988年法務大臣に就任した例がある〕。長官在任期間は3889日で歴代1位。最高裁長官時代の田中の発言として有名なものとして、後に「世紀の冤罪」として世間を賑わせた八海事件の際に、マスコミが検察側や判決に対して展開した批判や、弁護士正木ひろしが著書『裁判官 人の命は権力で奪えるものか』で述べた批判に対しての「雑音に惑わされるな」という発言や、松川事件の下級審判決を「木を見て森を見ざるもの」という発言などがある。最高裁判事に思想検事系列の池田克が起用されていたように、「治安維持の一翼」を積極的に担ってゆく方針の下、「公安事件」には厳しい判断を下していった〔『思想検事』(荻野富士夫、岩波新書、2000年9月) P194、P201〕。
砂川事件で政府の跳躍上告を受け入れ、合憲(統治行為論を採用)・下級審差し戻しの判決を下す(1959年12月16日)が、当時の駐日大使ダグラス・マッカーサー2世と外務大臣藤山愛一郎両名による“内密の話し合い”と称した、日米安全保障条約に配慮し優先案件として扱わせるなどの圧力があった事が2008年4月に機密解除となった公文書に〔『「米軍違憲」破棄へ米圧力 59年の砂川裁判 一審判決直後 解禁文書で判明 駐日大使 最高裁長官と密談』 しんぶん赤旗〕〔『砂川裁判:米大使、最高裁長官と密談 破棄判決前に』毎日.jp 2008年4月30日〕、またマッカーサー大使には「伊達判決は全くの誤り」と述べ破棄を示唆した事が、2011年に機密解除になった公文書に記されている〔最高裁長官「一審は誤り」 砂川事件、米大使に破棄を示唆 共同通信2013年1月17日〕。果ては上告審の日程や結論方針をアメリカ側に漏らしていたことが、機密指定解除となったアメリカ側公文書で2013年4月に明らかになった。当該文書によれば、田中はウイリアム・K・レンハート駐日首席公使に対し、「結審後の評議は、実質的な全員一致を生み出し、世論を揺さぶるもとになる少数意見を回避するやり方で運ばれることを願っている」と話したとされ、最高裁大法廷が早期に全員一致で米軍基地の存在を「合憲」とする判決が出ることを望んでいたアメリカ側の意向に沿う発言をした〔砂川事件:米に公判日程漏らす 最高裁長官が上告審前(1/2) 毎日新聞2013年4月8日〕。田中は砂川事件上告審判決において、「かりに(中略)それ(=駐留)が違憲であるとしても、とにかく駐留という事実が現に存在する以上は、その事実を尊重し、これに対し適当な保護の途を講ずることは、立法政策上十分是認できる〔例として、不法に入国した外国人であっても、国内に在留する限りは生命・自由・財産等は保障されなければならないことを挙げている。〕」、あるいは「既定事実を尊重し法的安定性を保つのが法の建前である」との補足意見を述べている〔 東京新聞2014年6月17日〕。
1974年聖母病院において死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田中耕太郎」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.