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田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期に活躍した博物学者、物産学者、農学者、園芸学者、錦鶏間祗候、男爵。 明治期に動物園、植物園を構想し、上野で実現。「博物館」という名称を生み出し、殖産興業の指導に尽力、基礎博物学の啓蒙につとめる。パリで行われた第4回万国博覧会、ウィーン万国博覧会に責任者として派遣される。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任。 == 経歴 == * 1838年(天保9年)8月9日、信濃国飯田城下の中荒町(長野県飯田市中央通り)に旗本千村氏〔美濃国久々利領主で信濃国伊那郡の天領預地を領する〕の典医を勤める医師田中隆三の三男として生まれる。漢方医だった兄の影響を受ける。 * 1856年、17歳で尾張名古屋に出て、博物学者の伊藤圭介の門に入り、千村五郎・柳河春三らと共に医術本草学と洋学を学ぶ。 * 1862年(文久2年)、伊藤圭介に従って江戸に下り、翌年に幕府の蕃書調所に出仕する。しばらくして、蕃書調書物産所は洋書収集と人材育成の洋書調書に改組。この間圭介の伴をしてシーボルトを訪ねている。開成所付置の物産所で殖産興業の発展を探った。その後師は高齢により職を辞して故郷に帰り、その後任となる。 * 幕府は1861年(慶応2年)に行われるパリ万国博覧会に正式参加表明、万博に昆虫標本の出品を決定する。 * 1866年(慶応2年)、幕府よりパリ万国博覧会への出張と昆虫標本採集と製作を命じられ、関東一円に赴き博物学者の子阿部為任と採集を行う。 * 1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に出張。自ら採集した昆虫標本が現地で注目された。 * 1867年(慶応3年)帰国し、洋書調書は明治維新後開成所に改組。翌々年、維新新政府より、開成所御用掛に任じられ、大阪舎密局建設にもかかわる。 大阪の大阪城跡地に理化学専門の高等教育研究機関「舎密局」開設準備にとりかかるが、舎密(けみ)局と呼ばれたこの施設を、科学だけでなく物理学等その他の自然科学全般を研究対象にする組織機関として、博物館、という名称を提案する。さらにこのとき植物園や温室などを附設することを提言、この施設を「遊歩所」、「園囿」と名づけている。この施設の構想案では7つのゾーンに分割し、幾何学的洋風庭園など、今日のリサーチパーク的な植物施設を構想している。 * 1868年(明治元年)、舎密局は開設されるが、予算の関係上他の施設は実現できなかった。 * 1869年(明治2年)東京に戻り、大学南校物産局に勤務。翌年、九段坂上招魂社境内で小規模博覧会(物産展)を実施。この年文部省が発足、湯島聖堂(旧幕府昌平坂学問所)が文部省所轄となり、文部省博物館として改組、物産展の展示物収用されると同時に同博物館に移籍する。 * 1870年(明治3年)、物産局を創設。のち勧業寮, 農商務省, 農林省・商工省, 通産省を経て経済産業省に発展する。 また、物産会すなわち殖産興業を主な目的とした博覧会の開催にたびたびかかわる。 * 1872年4月(明治5年3月)、翌年開催のウィーン万国博覧会への公式参加に伴い、全国各地から取り寄せた出品予定品を公開するため、湯島聖堂大成殿で博覧会を実施する。 * 1873年、佐野常民らともにオーストリア・ウィーンで開催されたウィーン万国博覧会に派遣される。 * 1875年(明治8年)、博物館、動物園などをもつ公園の設立に尽力し、上野の博物館・動物園の建設のために町田久成らとともに力を注いだ。町田が初代博物館長をつとめ、後に田中が職につく。こうして上野公園設計に携わり、博物館と動物園を設置した。 * 同年刊行された田中芳男訳纂『動物学初篇哺乳類』は簡略な図解であるが、分類階級の訳語として、classに「綱」、orderに「目」、familyに「科」、genusに「属」、speciesに「種」の訳を用い(磯野1986)、これが今日に及んだ。 * 農商務省博物局長をつとめた後、省を退職し、元老院議官、貴族院議員などの任につく。 * 1878年(明治11年)駒場農学校の設立に参画する。 * 1881年(明治14年)大日本農会結成に参画し、1882年に大日本水産会と大日本山林会の創設に尽して日本での農学と農林水産業の発展に貢献。 *1890年(明治23年) *9月29日 貴族院勅選議員に任じられる〔『官報』第2182号、明治23年10月6日。〕。 *10月20日、錦鶏間祗候となる〔『官報』第2195号、明治23年10月22日。〕。 * 1893年(明治26年)、日本園芸会副会長として、小平義近らと日比谷公園設計案を提出したが採用されず。 * 1915年(大正4年)12月1日、男爵を叙爵〔『官報』第1001号、大正4年12月2日。〕。 生涯、農林水産業や博物学の発展振興につとめた。 * 1916年(大正5年)6月22日、東京本郷金助町で永眠。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中芳男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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