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田中 訥言(たなか とつげん、明和4年(1767年) - 文政6年3月21日(1823年5月1日))は、江戸時代後期の絵師。名は敏、字は虎頭。別号は痴翁、得中、過不及子、晦存、求明など。復古大和絵の祖として知られる。 == 略伝 == 尾張国名古屋の出身(『鑑定便覧』)。幼少時、日蓮宗の寺に入門し、のちに比叡山延暦寺で天台宗を修める。画を狩野派の石田幽汀に学び、幽汀死後は還俗して土佐派の土佐光貞の門に入る。土佐派内部での訥言の評価は高かったらしく、天明8年(1788年)に22歳で早くも法橋位を得る。寛政2年(1790年)寛政度内裏障壁画の制作に、光貞、狩野典信、岸駒等と共に参加し、杉戸絵を描く。文化3年(1806年)光貞が没した後も土佐派に留まり、光貞の遺児土佐光孚を支えて活躍した。文化14年(1817年)には尾張藩奥医師林良益の尽力で二百幅画会を開催する。これは、単に生活のためだけでなく、眼病の治療のための上洛費用と医療費を捻出するためと考えられる。 有職故実に精通し、当時の土佐派の形式的画風よりも平安時代の大和絵への復古を目指し、『伴大納言絵詞』や『佐竹本三十六歌仙絵巻』を始めとする古絵巻を熱心に模写、のちに復古大和絵の祖として知られるようになった。文政6年(1823年)、視力を失ったため舌を噛んで命を絶ったと伝えられ、別号の晦存・求明は眼病を暗示する号と言われる。享年57。戒名は安祥院訥言居士。墓所は京都市東山区の日體寺。 現在確認される作品数は300点以上、有年紀作品は少ないものの落款の「訥」字の旁である「内」の一画目・二画目の変遷からおおよその画風展開を知ることが出来る〔竹内(2003)。〕。 門人に浮田一蕙、渡辺清、土佐光孚。また、弟子ではないが冷泉為恭も訥言に私淑していたという。彼らの作品には、訥言に倣ったと思われるものが複数残っており、訥言の影響力の大きさを見ることが出来る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田中訥言」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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