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田付 景澄(たつけ かげすみ)は戦国時代後期から江戸時代初期にかけての砲術師。田付流の祖。当時、田付景澄、稲富流の稲富祐直、安見元勝を鉄砲の3名人と称した。子孫は代々四郎兵衛を名乗り、井上正継を祖とする外記流の井上家と共に幕末まで鉄砲方を勤めた。〔 == 生涯 == 田付氏は近江国神崎郡田付村(現在の滋賀県彦根市田附町)に住し、その土地の名から田付を称した。戦国時代の田付氏は、南近江に勢力を誇った守護大名の六角氏の国衆として、田付城・三ツ屋城の城主であった。〔寺田所平『稲枝の歴史』 1980〕〔彦根市立教育研究所 編集『彦根の先覚』 1987〕〔『寛政重修諸家譜』〕 弘治2年(1556年)田付景定(美作守)の子として生まれる。祖父は田付景廣(美作守)〔 永禄11年(1568年)9月、父景定が織田信長のために田付において生害し、摂津国三田(現在の兵庫県三田市)へ移り住む。〔『徳川幕臣人名辞典』には、父景定は織田信長の家臣とある。〔竹内誠、深井雅海、太田尚宏、白根孝胤編『徳川幕臣人名辞典』 2010〕 慶長10年(1605年)、景澄の三男正景が10歳で近江膳所藩2代目藩主戸田氏鉄の家臣となる。〔大垣市 編『大垣市史(通史編 自然・原始~近世)』 2013〕 慶長13年(1608年)、伝書「求中集」を著す。同年12月30日、土井利勝が小見川藩主の時、下総国香取郡(現在の千葉県香取市)において采地500石を給う。〔〔『徳川実紀』〕 慶長18年(1613年)12月29日、銃技妙手として、徳川家康に召し抱えられる。〔〔『徳川実紀』〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田付景澄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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