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田原 淳(たはら すなお〔ドイツ在住時に論文を発表したため、H音を避けてTawaraと本人が表記したが、生誕地ではタハラ姓が普通である。戸籍は未発見。死亡届はタハラスナヲと記載されているが「ヲ」が用いられた理由は不明。(田原心臓研究会 島田達生代表より聞き取り2015年)英語版Wikipediaの田原淳〕、1873年7月5日 - 1952年1月19日)は日本の病理学者。 == 人物 == 1901年東京帝国大学医学部を卒業。1903年に私費でドイツに留学し、マールブルク大学の病理学教室でルードヴィッヒ・アショフ(Ludwig Aschoff)に師事した。 田原はここで、哺乳類の心臓筋肉について研究を行い、心臓刺激伝達系に重要な役目を持つ(田原結節、アショフ=田原結節)を発見。1905年、後に「田原結節」や「田原・アショフ結節」と呼ばれるようになる「房室結節」を発見し、心臓の刺激伝導系の存在を明らかにした。1906年その研究結果を『哺乳動物の心臓における刺激伝導系統』と題して発表した。この研究によって1914年帝国学士院恩賜賞を受賞する。これにより100年以上、研究者の間で論争となっていたトーマス・ウイリスに始まる心臓拍動の神経原説とアルブレヒト・フォン・ハラーに始まる筋原説の対立に筋原説の勝利という形で終わらせた。 1906年に帰国し、福岡医科大学(現九州大学医学部)病理学教室の助教授となり、1908年教授に就任。当時、同教室は田原と中山平次郎の2教授制であったが、後に中山が考古学へ転向したため、実質的な教室運営は田原によって行われた。1932年に別府市に開設された同大付属の温泉医療学研究所の初代所長となる。1934年に定年退官。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田原淳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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