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田原 節子(たはら せつこ 旧姓・村上 節子 1936年 - 2004年8月13日 )は、日本のアナウンサー、随筆家。田原総一朗の2番目の妻。ウーマンリブ運動家でもあった。元歌手の古賀さと子は実妹。 == 来歴・人物 == 東京都に生まれ。早稲田大学文学部卒業後、日本テレビ入社。アナウンサーとして17年、CMプロデューサーとして10年間の勤務後、退社。その間に結婚、出産を経験。結婚・出産後に局より「容色が衰えた」としてアナウンサーからの配置転換命令を受けたものの納得できずに提訴、勝訴する。総一朗との共著『私たちの愛』(講談社)によれば、局内ではもともとウーマンリブに関わっていた事が問題となっていたとのこと。CM制作部に移籍後はプロデューサーとして活躍するが、その間1980年代に作った「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」のコピーが有名になる。次女の江川綾子によれば、節子は「何でも手当たり次第に読みたがり、めいっぱい知りたがり、心から出会いを喜び、不条理に対してはとことん怒りまくる。そんなよく笑い、よく怒る、生命力の塊のような面白い人」であったという〔我が母ストーリー~母、節子によせて えがわあやこ 〕。 ジャーナリストの田原総一朗とダブル不倫の末、田原の妻がガンで死去したあとの1989年結婚。不倫当時はお互いの家庭を壊さないように関係を続けた。田原事務所代表を務める。1998年10月に炎症性乳がんを発症。余命6ヵ月の宣告を受ける。再発転移を繰り返し、抗がん剤治療を行いながら6年近く生存。その間、乳がんを中心に医療、女性問題などに関する執筆講演活動を活発に行う。この間のことは田原総一朗との共著『私たちの愛』に詳しい。 2004年8月13日、多臓器不全のため死去。葬儀は築地本願寺で執り行われ、葬儀委員長は電通の成田豊が務めた。 田原は節子がガンと宣告された時・亡くした時の二度自殺を考えたが思いとどまる。闘病中は献身的に節子に尽くし、「きみが人生のすべてだった」と言い切った。現在も遺骨を墓地に埋葬せず、自宅に保管している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田原節子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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