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田名網敬一 : ミニ英和和英辞書
田名網敬一[たなあみ けいいち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [な]
 【名詞】 1. name 2. reputation 
: [あみ]
 【名詞】 1. net 2. network 
: [いち]
  1. (num) one 

田名網敬一 : ウィキペディア日本語版
田名網敬一[たなあみ けいいち]

田名網 敬一(たなあみ けいいち、1936年7月21日 - )は、日本グラフィックデザイナーイラストレーター、アニメーション作家。
== 人物・来歴 ==
1936年東京の服地問屋の長男として生まれる。1945年、9歳の時に東京大空襲を経験する。この時脳裏に焼き付いた数々の光景は、田名網が後に描き出す作品の主要なモチーフを占める事になる。轟音を響かせるアメリカの爆撃機、それを探すサーチライト、爆撃機が投下する焼夷弾、火の海と化した街、逃げ惑う群衆、そして祖父の飼っていた畸形の金魚が爆撃の光に乱反射した水槽を泳ぐ姿である。

幼少期より絵を描くことが好きだった田名網は、中学生の頃に当時の代表的な漫画家、原一司のアトリエに出入りし漫画家を目指すようになる。しかし、原の突然の死により、以後漫画の草分け的分野であった絵物語作家の道を目指すようになり、やがてプロのアーティストになるべく武蔵野美術大学へ進学する。その才能は学生時代より広く知られ、在学2年生(1958年)の時にイラストレーション、デザインの権威団体の主催する展覧会(日宣美)で「特選」を受賞する。卒業後、一度は広告代理店に就職するも、個人への仕事のオファーが多すぎて1年足らずで退社。その後1960年代を通して、イラストレーター、グラフィックデザイナーとして多忙な日々を過ごす傍ら、戦後日本を象徴する芸術運動の1つであるネオダダイスムオーガニゼーションと行動を共にし、1960年代半ば以降当時アートとしては最も新しいメディアであった映像作品の制作にも没頭する。
 
1967年、初めてのニューヨーク旅行を経験する。このとき、アメリカの消費社会の繁栄の渦の中にあって力強く輝くウォーホルの生の作品に触れた田名網は、デザイナー活動の中にアートの新たな可能性を直に感じる。

サイケデリックカルチャーとポップアート全盛期の当時、田名網のポップでカラフルなイラスト、デザインワークは、国内外で高く評価され、1968年にAVANT-GARDE誌主催の「反戦ポスターコンテスト」 で入賞した作品「NO MORE WAR」や、伝説的バンド、モンキーズやジェファーソン・エアプレインのジャケットワークなど、「サイケデリックアート」、「ポップアート」の日本への導入に重要な足跡を残す作品を手掛けている。また、ハリウッド女優などをモチーフにして描かれた1970年代初めのエロティックなペインティングのシリーズは、アメリカ文化をウィットに富んだ視線で捉えた日本人アーティスト田名網の告白を示す重要な作品である。
田名網は、その後1975年に、日本版「月刊PLAY BOY」の初代アートディレクターに就任するに当たり、「PLAY BOY Magazine」本社を訪れるべく、再びニューヨークへ渡っている。この時、田名網は現地の編集者の案内で、アンディ・ウォーホルのスタジオを訪れている。この頃の田名網の作品は、映像とプリントワークを中心に、挑戦的で実験的な作品を数多く製作しており、特にその映像作品は、ドイツのオーバーバウゼン国際映画祭(1975年1976年)やニューヨークフィルムフェスティバル(1976年)、「オタワ国際アニメーションフェスティバル」(カナダ、1976年)などで上映されるなど高い評価を得ている。また、1976年に行われた展覧会「恋のスーパーオレンジ」(西村画廊)は、その前衛性ゆえに、個展初日に警察の立入検査によって差し止めにあった。
1981年(45歳)に肺水腫を患い生死の境を彷徨う。この経験から、1980年代-1990年代を通して、田名網は「生と死」をテーマにした作品を数多く残している。例えば、以後の田名網の作品に頻繁に登場する松の造形は、闘病中に田名網が見た幻覚のイメージに基づいている。同様に、鶴や象といった生き物や裸体の女性などと共に登場する螺旋や建築的造形といった箱庭的なモチーフも、この頃の作品の特徴である。
1999年、田名網の1960年代の作品にフォーカスを当てた展覧会が、ギャラリー360°(東京)で開催される。この展覧会を、ヤマタカEYE(ボアダムス)や、宇川直宏、KAWSといった1960年代以降に生まれた新しい世代のカルチャーリーダーが高く評価した事から、田名網敬一の作品は再び若者たちのカルチャーシーンに登場し広く支持を受ける。2005年より、ファインアートシーンにおける新作を発表。人格化した金魚、畸形のキャラクター、光線、螺旋の松、奇想的建築、少女など自身の記憶や夢の世界をペインティング、立体、映像、家具など様々なメディアで表現している。
 
1991年より京都造形芸術大学教授に就任し、束芋などの若手作家を育成。近年の展覧会に“Day Tripper”, Art and Public Geneva,2007、“SPIRAL”, Galerie Gebr.Lehmann Berlin,2008、“Kochuten”, NANZUKA UNDERGROUND,2009、“Still In Dream”,Frieze Art Fair,2010、”No More War”Art 42 Basel,2011、などがある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「田名網敬一」の詳細全文を読む




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