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田坂 虎之助(たさか とらのすけ、1850年12月6日(嘉永3年11月3日) - 1933年(昭和8年)1月25日)は、日本陸軍の軍人。日本における測地測量の基礎を築いた。最終階級は陸軍少将。 ==経歴== 嘉永3年に広島藩士田坂佐久六の次男として広島城下に生まれる。1871年1月2日(明治3年11月12日)に伏見満宮の随員としてドイツ(当時のプロイセン)に留学を命ぜられ〔『太政官日誌』明治3年第54号 。〕、測量や地図作成の技術を学ぶ。1875年(明治8年)12月20日、在独のまま陸軍少尉に任官〔『太政官日誌』明治9年第27号 。〕し、1878年(明治11年)8月23日陸軍中尉に、1880年(明治13年)12月27日陸軍工兵大尉に昇進。 1882年(明治15年)10月に帰朝し、参謀本部測量課に勤務。1885年(明治18年)3月28日に陸軍工兵少佐に昇進し〔『官報』第536号 、明治18年4月18日。〕、同年4月に参謀本部測量局三角測量課長となる。1886年(明治19年)3月29日には本初子午線並計時法審査委員を、1887年(明治20年)1月25日には改正兵語字書審査委員を〔『官報』第1070号 、明治20年1月27日。〕それぞれ仰せ付けられる。 同年3月23日には、ドイツでの長年に亘る在留経験を買われ、ドイツ帝国皇族フレデリック・レオポール親王来航に付き、式部官長崎省吾らとともに接待掛を命ぜられる〔『官報』第1117号 、明治20年3月25日。〕。同年4月7日、兼任建設局三等技師・奏任官三等〔『官報』第1130号 、明治20年4月9日。〕。参謀本部測量局が陸地測量部となった1888年(明治21年)5月14日には初代の三角科長に就任〔『官報』第1462号 、明治21年5月17日。〕し、1889年(明治22年)4月30日、万国測地学協会委員を仰せつかる〔『官報』第1750号 、明治22年5月3日。〕。 同年11月2日には陸軍工兵中佐に昇進〔『官報』第1907号 、明治22年11月5日。〕。1891年(明治24年)5月に設置された日本水準原点の創設に貢献しており、原点の水晶目盛が埋め込まれている船形石に「陸地測量部三角科長陸軍工兵中佐従六位勲六等田坂虎之助」と名が彫刻されている。 1895年(明治28年)5月12日に陸軍工兵大佐に昇進〔『官報』第3561号 、明治28年5月16日。〕。1898年(明治31年)5月23日、明治31年勅令第84号により発足したばかりの測地学委員会(現在の科学技術・学術審議会測地学分科会の前身)の委員を仰せつかる〔『官報』第4467号 、明治31年5月24日。〕。1902年(明治35年)5月5日には陸軍少将に昇進し、同日予備役に編入した〔『官報』第5648号 、明治35年5月6日。〕が、翌日付で引き続き陸地測量部三角科業務嘱託となる。同年5月21日には測地学委員会委員を退任するも、同日付で同委員会臨時委員を仰せつかり〔『官報』第5662号 、明治35年5月22日。〕、引き続き審議に参画する。1905年(明治38年)10月16日、後備役に編入〔『官報』第6917号 、明治39年7月20日。〕。1909年(明治42年)4月1日に退役した〔『官報』第7754号 、明治42年5月4日。〕。 1918年(大正7年)5月8日には、病弱を理由に測地学委員会臨時委員を退任する〔『官報』第1728号 、大正7年5月9日。〕。1933年(昭和8年)1月25日、肺炎にて病没。墓所は青山霊園。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田坂虎之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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