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田嶋 幸三(たしま こうぞう、1957年11月21日 - )は熊本県出身の元サッカー選手、元サッカー日本代表。現在、日本サッカー協会会長及びアジアサッカー連盟(AFC)理事。JFAアカデミー福島初代スクールマスター。 若年層の育成システム構築に深く関わり、著書も多い。兄は熊本県天草郡苓北町町長(1991年-)の田嶋章二、甥(姉の息子)はプロサッカー選手の日高慶太。 == 来歴 == 現役時代のポジションはフォワードであった。東京都世田谷区で育ち、世田谷区立用賀小学校〔、世田谷区立用賀中学校卒業後〔、浦和南高校に越境通学〔。同校3年時にキャプテンとして高校選手権優勝。しかし日本サッカーにそれほど魅力を感じず〔、教員になるため筑波大学に入学した〔。大学4年の時、日韓戦の前座試合で大学選抜の日韓戦に出場し、当時の日本代表監督・下村幸男の目にとまり日本代表に選出される〔。このとき選ばれていなかったら教員になるつもりでいたという(日本代表国際Aマッチ出場7試合、1得点)〔。いくつかの実業団から声がかかり、大学卒業後、日本サッカーリーグの古河電気工業サッカー部(現ジェフユナイテッド千葉)に所属。岡田武史、吉田弘、加藤好男らが同期〔。しかし代表監督が渡辺正に代わると代表に選ばれなくなり〔、モチベーションも下がり3年目で大学院を受験して合格し、大学院に通いながらプレーした〔。3年目の1982年シーズンを最後に25歳の若さで退社し、西ドイツ(当時)に留学し指導者への道を歩み始めた。 1983年から1986年までの2年半、西ドイツのケルン体育大学へと留学しB級コーチライセンスを取得。のち筑波大学大学院(同大学サッカー部コーチ)を経て、1988年に立教大学講師、1990-1995年同大学助教授。また同大学サッカー部コーチ。1996年から筑波大学客員助教授として、S級指導者養成にかかわる。 その一方、1993年から1996年には日本サッカー協会強化委員会委員(1994年からは副委員長)に就任して、強化プログラム策定に従事した〔。その後1996年から指導委員会委員、1998年より技術委員会副委員長と強化担当ポストを歴任。 1999年にはU-15日本代表監督に就任し、U-17世界大会に出場を果たすもグループリーグ敗退に終わった。その後U-19日本代表の指揮をとったが、技術委員長へ昇進したことから、大熊清に後を任せて退任〔。 2006年からは日本サッカー協会専務理事に就任。それにともなって技術委員長は退任した。2010年1月、日本サッカー協会は小倉純二副会長が務めている国際サッカー連盟(FIFA)理事やアジアサッカー連盟(AFC)理事などの国際業務を段階的に田嶋へ引き継がせる事を理事会で決定し〔スポニチ2010年1月14日付記事 〕、AFC理事やFIFA理事の選挙に備えた。 2010年7月に小倉が新会長へ就任すると田嶋は専務理事との兼任で副会長に就任。なお2012年6月の改選では副会長に留任する一方で、兼務していた専務理事は退任している。 2011年1月6日アジアサッカー連盟(AFC)総会がカタールで行われ、FIFA理事選挙では田嶋が落選し、日本は2002年以来守ってきたFIFA理事のポストを失ったが、アジアサッカー連盟(AFC)理事には選ばれた〔日本サッカー協会 田嶋幸三副会長兼専務理事 アジアサッカー連盟理事に -日本サッカー協会公式HP2011/01/07 〕〔〕。 2015年4月、バーレーン・マナマで開催されたアジア・サッカー連盟(AFC)総会にて国際サッカー連盟(FIFA)理事選挙に立候補、当選。FIFA日本人理事は歴代で4人目。 2016年1月、初となるJFA会長選挙で原博実を破り当選。同年3月に会長に就任する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田嶋幸三」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kozo Tashima 」があります。 スポンサード リンク
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