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田島弥平 : ミニ英和和英辞書
田島弥平[たじま やへい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [たいら, ひら]
 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm

田島弥平 : ウィキペディア日本語版
田島弥平[たじま やへい]
田島弥平(たじま やへい、文政5年8月15日1822年9月29日) - 明治31年(1898年2月10日)あるいは田島邦寧(たじま くにやす)は、明治時代前期に広く普及した養蚕技法「清涼育」(せいりょういく)を確立した、島村(現群馬県伊勢崎市境島村)の養蚕農家・蚕種製造業者である。主著に『養蚕新論』『続養蚕新論』があり、養蚕業蚕種製造業への貢献によって緑綬褒章を受章した。太平洋戦争後まもない時期に群馬県が刊行した『上毛篤農伝』では、「群馬県の誇り」「蚕糸群馬が生んだ最大の巨人」等と賞賛されている。
彼が自らの理論に基づいて改築した住居(田島弥平旧宅)は、国の史跡に指定されており、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産として、世界遺産リストに登録された。
== 生涯 ==

=== 清涼育の確立 ===
田島邦寧は文政5年(1822年)8月15日、上野国島村の田島弥兵衛(たじま やへえ、1796年 - 1866年)の長男として生まれた〔。は子寧(しねい)、は南畭〔厳密には「畭」ではなく、その異体字である「余」の下に「田」を書く字を使う。〕(なんよ)〔。父の弥兵衛は養蚕で財を成した人物であり、養蚕長者としてその名を知られていた〔。のみならず、若いときから学問に熱心で、天保元年(1830年)〔では文政6年(1823年)とされている。〕に頼山陽を訪ねて門前払いを受けた際には、「僕かつて吉野に遊ぶ。桜花われを拒まず。先生の門、吉野にしかざるは何ぞや」〔より引用。〕と豪語し、山陽を驚かせた〔、〕。弥兵衛は自宅を「遠山近水邨(村)舎」(えんざんきんすいそんしゃ)と称したが、それはこのときに招き入れた山陽の揮毫に由来するという〔。邦寧は後年、この父の名を継いで「弥兵衛」と名乗り、次いで「弥平」を名乗った。
島村の村内には利根川が流れており、その流路の変更によって時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ。弥平が生まれた文政5年は利根川大洪水のあった年で、彼はまさにその最中に生まれたと伝えられている〔。島村では19世紀初頭に蚕種製造業が始まっており、文政5年の大洪水を機に河原が開墾されて桑畑へとなり、さらに発達した〔当時の蚕病の一つに、ハエが卵を産みつけた桑の葉を蚕に食べさせることで発生する蠁蛆病(きょうそびょう)というものがあったが、原因不明の病気とされていた。それを避ける方法として、養蚕農家たちが経験則として認識していたのが、大河川の河原で育てた桑の葉を食べさせた蚕には蠁蛆病が発生しづらいということであった()。〕。
田島弥兵衛は、田島武兵衛家の分家であり〔弥兵衛は長男(第二子)だったが、家督は姉の婿に譲ったという()。〕、ともに富裕な蚕種商人として、文化的素養も高かった。田島弥兵衛家の瓦葺き蚕室は、天保7年(1836年)に焼失し、再建された。弥平が15歳のときで、このころから、弥平も蚕種製造業に従事した。
田島弥兵衛が当初実践していたのは、自然のままの温度を重視する自然育(清涼育)であったが、蚕室の再建後、奥州などで広く行われていた温暖育に切り替えた〔。温暖育は火気によって蚕室を暖める生育法だが、田島親子の場合、このやり方ではうまくいかず、さまざまな地域を渡り歩き、生育法を研究した。そして、米沢の養蚕農家の自然育に着想を得て、再び清涼育に切り替えた。弥平は清涼育の実践のために、安政3年(1856年)に納屋を改造して二階建ての蚕室とし、その年の失敗を踏まえて、翌年に換気のための窓(ヤグラ〔弥平自身は「抜気窓」(ばっきそう)と呼び()、現代の境島村では「櫓」(ヤグラ)と呼ばれる。ただし、「ヤグラ」という呼称の定着経緯は未詳である()〕)を屋根(屋上棟頂部)に据えつけた。これが好成績に結びついたことから、さらに改良をし、3階部分を増築して吹き抜け構造の蚕室にした。また、自身の居宅も2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラ(総ヤグラ)が載る形にした。弥平はこの2つの蚕室が完成した文久3年(1863年)にそれらを「桑拓園」(そうたくえん)と命名した。一般にこの文久3年をもって、弥平が独自の清涼育を確立したと位置づけられている。
元治元年(1864年)に蚕種の輸出も解禁されると〔蚕種輸出の解禁は元治元年(1864年)9月としている文献()と、慶応元年(1865年)7月としている文献()がある〕、島村でも蚕種製造業に従事する農家が増えた。そうした農家たちは弥平の清涼育を取り入れ、蚕室もヤグラを備えたものにした。このことから、弥平が確立した蚕室のことは、「島村式蚕室」と呼ばれるようになった。また、当時の代官所への訴状などから、弥平が島村の蚕種家の中で中心的人物の一人となっていたことが指摘されている。
この清涼育およびそれに基づく島村式蚕室は、明治初期には岩鼻県が、勧奨されるべき養蚕法として位置づけていた。また、明治6年(1873年)には熊谷県管内蚕種優等者(第一等)として表彰された。そして、桑拓園には、全国から伝習生が集まり、その労働を通じて、清涼育を学び取った。明治6年から7年の伝習者は130人を超えており、その中には酒田県の士族もいた。彼らは帰郷後、松ヶ岡開墾場の蚕室を作ることになる。また、のちの話になるが、明治15年(1882年)には、「清温育」の高山長五郎が訪れている。長五郎が具体的に何を学びとったかには不明な部分もあるが、彼の「清温育」は折衷的な育て方のため、その蚕室構造には通気のためのヤグラが備えられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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