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田川豊 : ミニ英和和英辞書
田川豊[たがわ ゆたか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [かわ]
 【名詞】 1. river 2. stream 

田川豊 : ウィキペディア日本語版
田川豊[たがわ ゆたか]

田川 豊(たがわ ゆたか、1918年11月30日 - 1981年8月22日)は、昭和中期から後期(1940年代後半~1970年代)のプロ野球選手プロ野球審判員
== 来歴・人物 ==
呉港中学校時代の1934年捕手として全国中等学校優勝野球大会に出場。2学年上の藤村富美男(のち大阪タイガースの投手・内外野手・監督)とバッテリーを組み全国制覇。1935年からは内野手に転向。この年夏は準々決勝敗退(対早稲田実業0-5)。藤村富美男が卒業した1936年の春全国中等学校選抜野球大会からは投手に転向。エースで4番だったが、優勝した愛知商業に初戦負け (1-4) 。同年夏も初戦敗退(対桐生中学0-4)。1937年夏には田川(4番エース)、2学年下の柚木進(兼・3番ファースト)、藤村隆男(兼・6番センター)の3投手を擁したが準々決勝でこの年準優勝した熊本工業川上哲治に3安打に抑えられた。通算5回甲子園に出場した。
法政大学進学後は1941年東京六大学野球秋季連盟戦で首位打者を獲得。呉港中の後輩、柚木らと法政5度目の優勝に貢献。戦中は第8飛行師団中尉として従軍〔関三穂『プロ野球史再発掘 5 』ベースボール・マガジン社、1987年、P69 - 70〕。戦後は神戸川崎重工業にいたが鶴岡一人に口説かれ1946年グレートリングに入団。新人ながら打率2位(=.341、1位・金田正泰(阪神).347)の成績を残し、戦後プロ野球再開年のチーム初優勝に貢献。この年に記録した打率.341は歴代新人最高打率であり、新人でこの打率を超えた選手は未だにいない。
法大の後輩森下重好を主砲として擁する1948年大陽ロビンス1953年大洋ホエールズと合併し大洋松竹ロビンスとなる)に移籍。1949年11月に法大の先輩、藤田省三が初代監督に就任した近鉄パールスの設立に森下と共に現役選手として参加。1953年大映スターズに移籍し1954年引退した。
引退した翌年の1955年パシフィック・リーグの関西審判部に入局しプロ野球審判に転向。威勢のいいテキパキしたジャッジで、「デンさん」と呼ばれ親しまれた。個性豊かな審判として有名で、大の酒好きで知られ、土井正博は「試合前夜でも飲み明かして、酔っぱらって小便たれたズボンのまま球場に来るんですよ。臭いのなんの。『二日酔いで見えへんから辛抱してくれ』ですよ。笑うしかなかった」と選手以上に個性派揃いだった審判として村田康一露崎元弥とともに名前を挙げている〔サンケイスポーツ2009年12月26日4面〕。
1979年に病気を理由に引退するまで審判を務める。また珍しい記録として読売ジャイアンツのV9期間中、優勝決定試合9回のうち8回に出場。球審塁審外審として見届けていた。パ・リーグの歴史的な優勝決定試合や1971年に起きた日本プロ野球最後の放棄試合にも出場しているが、パ・リーグの審判でありながら、巨人の歴史に顔を出している審判といえる。
1977年にパ・リーグが審判袖番号を採用しているが田川がつけた番号は12(初採用から1979年引退まで。12は1981年以降柿木園悟がつけて今に至っているが柿木園も関西審判部所属である)。2000 - 3999打数の打者では3571打数954安打、打率.267 通算打率98位と、これは審判中最高の成績であり、選手として一流の成績を残したのち審判員に転向した人物である。
1981年8月22日、心筋梗塞のため死去。享年62。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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