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田 戎(でん じゅう、? - 36年)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将。豫州汝南郡西平県の人。義兄(妻の兄)は辛臣。義父は秦豊。義兄弟は延岑。 == 事跡 == === 夷陵の支配者 === 夷陵(南郡)を根拠地とした新末後漢初の群雄の1人で、後に蜀(成家)の公孫述の部将となった人物。最初は、同郷の陳義と共に夷陵へ赴き、群盗を働いていた。更始1年(23年)には、田戎・陳義は夷陵を攻め陥とし、田戎は埽地大将軍を、陳義は黎丘大将軍をそれぞれ自称した〔『後漢書』岑彭伝注『襄陽耆旧記』によると、田戎は周成王、陳義は臨江王をそれぞれ自称したとしている。また陳義は、その後の事跡について史書に記載が見当たらない。〕。その後、田戎は各郡県を攻略し、数万人の軍勢を率いた。 建武3年(27年)7月、漢の征南大将軍岑彭が楚黎王秦豊を黎丘郷(南郡県)に包囲すると、妻の兄辛臣の諌めにもかかわらず、田戎は漢に降ることを決める。翌建武4年(28年)春、田戎は辛臣に夷陵の留守を任せ、黎丘郷へ向かい、期日を定めて漢に降ろうとした。ところが辛臣が変心し、田戎の宝を盗んだ上で夷陵から逃亡して漢に降り、あわせて書面を田戎に送って降伏を勧める。辛臣が自分を売ったに違いないと疑った田戎は、結局漢への降伏を取りやめて、秦豊へ付くことにした〔『後漢書』岑彭伝注『]』によると、期日が来て田戎が亀甲占いをしたところ、凶と出たため、降伏を取りやめたとしている。〕。その後、時期は不明だが、田戎は、漢中から南陽へ逃れてきた当時の群雄の1人延岑と共に、秦豊の娘を妻としている。 しかし田戎は岑彭との戦いで敗北して、その部将伍公は漢に降伏し、田戎は夷陵へ撤退した。翌建武5年(29年)になると、秦豊が弱体化したために、岑彭率いる南征軍主力の矛先は田戎に向けられるようになった。同年3月、田戎は岑彭と津郷(南郡江陵県)で戦って敗北する。さらに岑彭に夷陵を攻略され、逃走先の秭帰(南郡)でも追撃を受ける。結局、田戎はわずか数十騎で蜀に逃れ、その妻子と数万の軍勢は尽く漢軍に鹵獲されてしまった。また、秦豊も同年6月に滅亡している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田戎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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