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田村勤 : ミニ英和和英辞書
田村勤[たむら つとむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [むら]
 【名詞】 1. village 
: [ごん]
 【名詞】 1. be fit for 2. be equal to 3. serve

田村勤 : ウィキペディア日本語版
田村勤[たむら つとむ]

田村 勤(たむら つとむ、1965年8月18日 - )は、静岡県榛原郡川根町出身の元プロ野球選手投手)。
== 来歴・人物 ==
駒澤大学では東都大学リーグ通算29試合登板し3勝3敗。4年次にサイドスローに転向し、本田技研に入社。1年目の1988年には都市対抗野球大会に選手登録されるも出場はならなかったが、2年目の1989年に初出場。翌1990年にはチームは敗れるものの、補強選手として出場。1回戦に先発として起用される。同年ドラフト4位で阪神に入団。背番号は一貫して36を背負った。
プロ1年目から中継ぎ・抑えとして活躍。球速は最速141km/hながらも、ストレートで狙って三振が取れる投手として50試合に登板する。一度マウンドに上がると叫びながら闘志を剥き出しにして投げ続けた。2年目の1992年は球速も146km/hまで上がり、守護神として大活躍。前半戦だけで5勝1敗14セーブ、防御率1.10という好成績を残す。しかし、同年シーズンは開幕後から左肘に違和感を感じており、6月ごろから裂けるような痛みを感じるまでに悪化。痛みの中で投球を続けていたものの、7月には一軍登録を抹消され、後半戦は登板することができなかった〔。彼の故障離脱などが尾を引き、この年阪神は優勝を逃した。
以降は肩・肘の故障に悩まされる。翌1993年には、6月に故障から復帰〔。22セーブを挙げ、当時の球団記録である10連続セーブを達成〔(2008年4月23日藤川球児が更新)したが1995年には一軍登板なし、1996年1997年にはショートリリーフとして2年間で90試合に登板し復活するが、1998年にはまたしても肩の故障で二軍登板すらできなかった。1999年には野村克也監督に遠山奬志と共に対松井秀喜高橋由伸などの左打者のワンポイントとして起用されるも、既に以前の球威はなく、気迫と投球術でカバーする投球に終始した。2000年オフに自由契約を言い渡され、オリックスに移籍。しかし、活躍はできず、2002年の最終戦となった10月14日日本ハム戦で引退試合を行う。この試合で田村はプロでは最初で最後となる先発マウンドに立ち、先頭打者の森本稀哲を三振に取って降板した。
あだ名は「たむじい」。これは本人が「おっさん顔」で、歩く時はちょっと猫背気味にとぼとぼと歩き、また、静岡出身でお茶に目がなく、自前の急須をいつも持ち歩いていたというエピソードがまるでおじいさんみたいだと言われたことに由来する。また、自動車メーカーの出身ながら自宅から甲子園球場まで自転車通勤をしていて、1992年の契約更改を伝えるスポーツニュースでは、当時巨人駒田徳広が颯爽とスポーツカーで契約更改に現れた映像の直後に、自転車で契約更改に現れる田村の姿が大写しとなった。
2002年の現役引退後は大学チームのコーチ等を務めていたが、駒大時代の恩師・太田誠監督に「お前は怪我で苦労したから、体を診る仕事はどうだ」と助言を受けたのを機に、2005年12月に兵庫県西宮市市庭町に『田村整骨院』を開業した。現在は接骨院を営みながら、少年野球の指導にも携わっている〔。2014年には、石川県で高校野球の指導者資格を回復。同県の藤花学園尾山台高等学校野球部の非常勤コーチに就任した〔。月に1~2回程度の指導を行う〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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