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田村 隆一(たむら りゅういち、1923年(大正12年)3月18日 - 1998年(平成10年)8月26日)は、日本の詩人、随筆家、翻訳家。詩誌『荒地』の創設に参加し、戦後詩に大きな影響を与えた。 == 来歴・人物 == 東京府北豊島郡巣鴨村(現在の東京都豊島区南大塚)に生まれる。生家は祖父の代から鳥料理店「鈴むら」を経営していた。東京府立第三商業学校卒業後、東京瓦斯に入社するも1日も出社せず退職した。研数学館での浪人生活を経て、明治大学文芸科を卒業する。 1939年、中桐雅夫編集『ル・バル』に参加する。鮎川信夫、森川義信、衣更着信、三好豊一郎、牧野虚太郎らと知り合う。1947年、鮎川信夫らと『荒地』を創刊する。 1950年より翻訳を開始する。処女訳書はアガサ・クリスティ『三幕の殺人』。その版元であった早川書房に1953年より57年まで勤務、編集と翻訳にあたる。当時の部下だった福島正実、都筑道夫らの回顧文では「有能だが、あまり仕事をしない、風流人」として描かれている。退社後は他の出版社とも仕事をし、数多くの推理小説や絵本を紹介した。 1956年に処女詩集『四千の日と夜』を刊行した。この詩集は2年後に筑摩書房の『現代日本文学全集』に収録されるという評価を受けている。1963年、『言葉のない世界』で高村光太郎賞を受賞する。1967年から翌年にかけては、アメリカのアイオワ州立大学に客員詩人として招かれた。その後、1971年にも谷川俊太郎らと渡米し、詩の朗読を行った。同年、英訳詩集『World Without Words』出版(Takako Uchino Lento訳)。1978年、『詩集1946~76』(最初の全詩集)によって第5回無限賞を受賞する。1985年、『奴隷の歓び』で読売文学賞を受賞する。1993年、『ハミングバード』で現代詩人賞を受賞する。 軽妙なエッセイも得意とし、『ぼくの遊覧船』『青いライオンと金色のウイスキー』ほかの著書がある。 晩年は萩原朔太郎賞の選考委員を務め、テレビ番組への出演も行うなど、旺盛な活動ぶりを見せた。「おじいちゃんにも、セックスを。」というコピー(制作は前田知巳)が打たれた宝島社の広告にモデルとして登場し、大きなインパクトを与えた。1998年8月26日、食道癌のため死去した。享年75。最後の詩集は朝日新聞社から死後に刊行された『帰ってきた旅人』である。 吉本隆明は「日本でプロフェッショナルだと言える詩人が三人いる。それは田村隆一、谷川俊太郎、吉増剛造だ」と評している。 最初の妻は鮎川信夫の妹〔結婚の仲人は斎藤正直(宮田昇『戦後「翻訳」風雲録』より〕。2度目の妻は福島正実の従姉妹〔結婚の仲人は江戸川乱歩。宮田昇『戦後「翻訳」風雲録 翻訳者が神々だった時代』本の雑誌社、2000年〕。岸田衿子は3度目の妻〔岸田衿子さん(詩人)が死去 。『言葉なんかおぼえるんじゃなかった 詩人からの伝言』(ちくま文庫)収録の年譜。〕。高田博厚の娘の田村和子は4度目の妻で、ねじめ正一の小説『荒地の恋』のモデルとなった〔田村和子『幸福のかたち』海竜社、1985年 『言葉なんかおぼえるんじゃなかった 詩人からの伝言』(ちくま文庫)収録の年譜。〕。最後の妻は田村悦子〔田村隆一in Memorium展 『言葉なんかおぼえるんじゃなかった 詩人からの伝言』(ちくま文庫)収録の年譜。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田村隆一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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