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田辺 昭三(たなべ しょうぞう、1933年 - 2006年2月20日)は、日本の考古学者。須恵器の研究や、日本における水中考古学の研究に先鞭をつけたことで知られる。 ==経歴== 静岡県菊川町(現菊川市)出身。1948年、登呂遺跡の発掘作業に参加。同年、白岩遺跡の発掘作業も手伝った。これらの経験から考古学に傾倒していった。1952年、静岡県立掛川西高等学校を卒業。 立命館大学大学院を修了後、平安高等学校教諭、奈良大学助教授を経て同教授に就任。さらに、京都市埋蔵文化財研究所調査部長、京都芸術短期大学教授・京都造形芸術大学教授、神戸山手大学教授を歴任した。 1973年2月、平安京調査会の発足に伴い、代表に就任した。同会は1976年11月、六勝寺研究会、鳥羽離宮跡調査研究所と統合して京都市埋蔵文化財研究所となった。同所調査部長時代には、平安京跡の発掘調査を主導。また、大阪府堺市南部の陶邑(すえむら)窯跡群の発掘を行った。このとき出土した須恵器の編年史をまとめた研究が評価され、1983年に日本学士院賞を受賞した。 1988年、広島県の宇治島南方で沈没船が発見された。1867年に坂本龍馬らが乗船し、紀州藩の明光丸と衝突して沈没した「いろは丸」(「いろは丸展示館」の項を参照)ではないかとの声が挙がった。田辺が所長を務める水中考古学研究所は、1988年と翌1989年の2回にわたって調査を行い、この船がいろは丸である可能性が高いとの結論を得た。 京都造形芸術大学教授時代の1995年及び1996年には、中国の尼雅(ニヤ)遺跡群の研究にも参加した。 掛川市に蔵書約14,000冊を寄贈。これを受け、同市立図書館内に「田辺文庫」が設けられた。 2001年初頭、劇症肝炎に罹患するが快復。しかし2006年2月20日午後11時45分、肝不全のため京都市北区の病院で死去。72歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田辺昭三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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