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田部 武雄(たべ たけお、1906年3月28日 - 1945年6月)は、広島県広島市袋町(現在の中区)生まれの〔ベースボールマガジン、1977年7月号、195-210頁、大道文(田村大五)「歴史再発掘 プロ野球の謎とロマン② 幻の天才走者・田部武雄」〕〔#菊池11頁〕プロ野球選手(内野手、外野手、投手)。大日本東京野球倶楽部→東京巨人軍創成期の1番打者、主将。巨人で最初に背番号3を着けた選手(現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもある)〔プロ野球OBクラブ-千葉茂コラム第5回 〕。戦死した日本のプロ野球選手の一人。身長5尺3寸(161 cm)〔、体重14貫(52 kg)〔。 == 来歴・人物 == 8人兄弟の5番目で早くに父を亡くし家庭の事情は複雑だったという〔。次兄・謙二(のち養子縁組し渡辺姓となる〔)は、1915年に初開催された全国中等学校優勝野球大会(のちの夏の高校野球選手権)、第1回大会の第1試合に広島一中(現・広島国泰寺高校)の6番・捕手として出場した。この試合で指を痛め付近の病院に担ぎ込まれたため、これをきっかけに各種スポーツ大会に救護班が設けられるようになったという逸話が残っている。その後、毎日新聞広島支局の記者となり、1920年にセミプロ野球団「大阪毎日野球団」の結成に参加〔『阪神タイガース 昭和のあゆみ(プロ野球前史)』株式会社阪神タイガース、1991年、77頁〕〔相馬卓司『センバツ物語』毎日新聞社、1988年、p22〕。1924年から始まる選抜高等学校野球大会開催にも関与した。田部武雄もこの兄の影響で野球を始めた。加藤喜作と同じ袋町小学校出身〔〔#菊池11-13頁〕〔『明治大学野球部史〈第1巻〉』、駿河台倶楽部明治大学野球部史編纂委員会、1974年7月、269頁〕。少年野球チーム・旭ボーイズに所属していたという〔。 袋町小学校高等科を経て1920年、旧制広陵中学(現・広陵高校)に入学するが〔、1年で退学。理由は先の次兄・謙二がこの頃亡くなり、広島市内から田部の係累が全部消え、長兄・真一、三兄・正三をたより満州に渡った〔、或いは学校あげての野球部満州遠征のメンバーに加えられなかった不満から〔、他に天才的素質に好意を寄せた大連実業の実力者に迎えられたなどの説がある〔『明治大学野球部史〈第1巻〉』、269頁〕。菊池清麿は複雑な家庭環境によるものではと推察している〔#菊池14頁〕。このため16歳で単身満州・奉天に渡り〔『センバツ物語』、p105〕サラリーマンをしながら1924年、大連実業団(以下、大連実業)〔満州倶楽部は南満州鉄道のチームで、それ以外の会社の連合チームが大連実業(『大連港で』、269頁)。〕 に参加し野球を続ける〔#菊池19頁〕。六大学出身の花形選手が揃っていた当時の大連実業でレギュラーポジションを掴む〔『大連港で』清岡卓行、福武書店、1987年、266-292頁〕。田部、谷口五郎(岩瀬五郎)、山本栄一郎らの大連実業と中澤不二雄が主将だった満州倶楽部〔満州鉄道のチームで、正式名称は「大連満州倶楽部」(『大連港で』、269頁)。〕 との戦い"実満戦"は"大連の早慶戦"と呼ばれた。勤務先は満州の営口実業団の後〔〔#菊池16頁〕 東華銭荘に就職した〔『阪神タイガース 昭和のあゆみ(プロ野球前史)』株式会社阪神タイガース、1991年、p112〕。戦前の20年間を大連で暮らした清岡卓行は、田部の大ファンで、田部目当てで試合や練習を度々見に行ったと著書『大連港で』に書いているが、1924年当時の田部の勤務先は銭荘(両替所)だったと書いている〔。 1926年秋には大連実業の1番二塁手として内地を転戦。1927年、大連実業の明治大学OB・中島謙監督と小西得郎から、明治への進学を勧められ帰国し広陵中学四年に復学。復学か短期間の転入かは不明〔。当時広陵から多くのOBが明大野球部に進んでいた〔。広陵の学籍簿には「中学四年生として編入試験に合格」「1927年4月2日復学」と書かれているため、大道文(田村大五)は「退学したときの学年」に正直に戻り、当時中学は5年が修了期限であったが、四年修了と同時に大学に進学することも可能だったため、大学へ行く資格を取るために編入したのだろうと推理している〔。この頃春の選抜大会には年齢・学年とも制限が無かったため〔#菊池24頁〕、この年21歳にして甲子園に出場。この前年度初優勝して「野球王国」広島の礎を築いた広陵〔『センバツ物語』、p93〕 は、八十川胖(のち明大、八十川ボーク事件で有名)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(通称:ベーブ山城、立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われ、春連覇を狙い田部がエース3番として勝ち進み決勝までいくが、快速球左腕小川正太郎の和歌山中学(和中)の前に敗れた。この大会、決勝まで打ちまくり、走りまくりで、決勝はクタクタでピッチングは本調子ではなかった。この年の優勝チームはアメリカ遠征の褒美が付いていたが叶わず、「オレは、それだけが目的だった」と身を震わせて残念がっていたという〔。しかし大投手・小川から7回裏に公式戦で初めての被本塁打(ランニングホームラン)を浴びせている。同年夏の選手権は「他チームでの在籍は1年のみ」という制限に引っ掛かり、田部は出場できなかった(代わってエースとなった八十川が2回戦、対敦賀商業戦で史上2人目のノーヒットノーランを達成するなどして勝ち進むが、またしても決勝で水原茂らのいた高松商業に敗れた)。 この1927年の田部の動きが分かりにくい。夏選手権が終わるとまた広陵中を退学し大連実業に復帰したと書かれた文献もあるが、清岡卓行著『大連港で』は、この年に第1回全日本都市対抗野球大会の満州代表を決める"実満戦"があり、田部はこの実満戦に遊撃手または二塁手として3番や1番を打ったが、一勝二敗と不覚をとり第1回都市対抗には出場が出来なかったとある〔『大連港で』、p271。この年の"実満戦"で、大連実業に勝った満州倶楽部が本大会で優勝、田部が抜けた翌1928年の第2回都市対抗では大連実業が満州倶楽部を降し本大会に出場し優勝した。〕。実満戦は年に一度、初夏に行われた定期戦のため〔『大連港で』、p271。1920年代の後半から年5試合となるが、それ以前は年3試合だったという(同書p269)。〕、これだと田部は広陵で春選抜出場の後、また大連実業に戻ったことになり、広陵の在籍はごく短い期間だった可能性がある。 1928年9月19日鮮満遠征で来た明治大学との試合では、大連実業の1番遊撃手として登場〔山室寛之『野球と戦争』中央公論新社、2010年、21-25頁〕〔『六大学野球物語』松尾俊治他、恒文社、1978年、220-221頁〕。ピッチャーが一塁に山なりの牽制球を投げるのを見てとると、三塁から脱兎の如く本塁を駆け抜け見事ホームスチールを成功させた〔。逆に同年秋に田部のいた大連実業が東京に遠征して早稲田大学、慶應義塾大学、明治大学と対戦したとする文献もある〔。田部のように実力十分な選手が加わることで、チーム力がすぐに上昇する現実が、中学校の選手争奪戦を激しくした〔。こうした田部の放浪生活は中等野球でも問題となり、中等野球選抜、選手権大会とも「在学一年以上」「落第生の出場禁止」など出場資格についての制限が1932年に施行された野球統制令に加えられた〔。1928年、22歳で明治大学の3年に進学。3月8日の関西大学戦に2番遊撃手として出場した。明治の進学は同大学のOBである小西得郎や安藤忍、中島謙や、広陵の同期・銭村辰巳らが関与したといわれる〔〔#菊池23頁〕。「広陵学園野球クラブ会員名簿」には昭和4年(1929年)広陵を卒業と明記されているため、広陵中に籍を置いたまま明治大学に進学したことになる〔。菊池清麿は、広陵を卒業した昭和4年(1929年)は、明治大学に既に入学していて、二重学歴となるが、個人の才能を十分に伸ばすという大らかな教育事情に従ったと推察している〔#菊池27-28頁〕。この入学問題のため「明大は田部を買った」「球界の不祥事」などと大きく批判された。明治入りした田部はすぐにレギュラーを確保、主に二塁と遊撃を守ったが、捕手以外のポジションなら全てこなし、命ぜられればマウンドに上がり強打者を手玉に取った。踏み出した左足を地面に付けて、やや遅らせて球を投げるというボークすれすれの新しいモーションを編み出し、この投げ方は当時流行した〔。また後輩・八十川胖が田部を真似て後年、八十川ボーク事件の遠因となった三塁に偽投し、反転、一塁へ牽制球を投げるという戦法も田部が編み出したもの〔。走者として塁に出ると飛び跳ねて、スパイクをカチッカチッと鳴らし片足を突き出してピッチャーを威嚇、大騒ぎする観客の中、まるで隣の家に行くように盗塁を簡単にやってのけた。また、俊足強肩の外野手としても知られ、後楽園スタヂアム(現・東京ドーム)の社長を務めた保坂誠は、「慶明戦でセンターを守っていた田部が、ランナー三塁で大きなセンターフライを背走して好捕。97.8mぐらいのところから、1メートルくらいの高さのバックホームをしてランナーを刺した。後にも先にもあんなプレーは見たことがない」と、今でも強烈な印象が残っていると話していた〔『プロ野球よ!』冬樹社、1985年、187頁〕。全てを兼ね備えた天才選手といわれ明治の黄金時代に貢献。リーグ通算67試合出場、259打数56安打、打率.216、0本塁打、22打点、36盗塁。東京六大学を代表する美男子ともいわれ、明治の練習に女性がくれば九割が田部のファンで〔〔#菊池108-109頁〕、同級(年齢は違う)だった松木謙治郎は田部ファンからの差し入れのケーキや寿司をよく回してもらったという。当時、田部と書かれたサインの多くは松木の代筆だという〔。『明治大学野球部史』にも「昭和初期に最も“神宮の杜”を沸かせた選手」とある〔『明治大学野球部史〈第1巻〉』、268頁〕。ただし、先の入学問題と相まって「スタンドプレーの標本」などと悪口を言われた(この時代の活躍については大和球士著、『真説 日本野球史 《昭和篇その一》』に詳しい)。1931年、初来日したルー・ゲーリッグら米大リーグ選抜チームと対戦する日本選抜チームに外野手でファン投票で選ばれ、右翼手3回と投手2回で4試合出場。大学の先輩・小西得郎が可愛がり小西の神楽坂に自宅に居候していた〔したいざんまい 〕。小西は「私の六十年の野球生活の中でみてきた選手では、飛び抜けた存在だった」と評している〔『明治大学野球部史〈第1巻〉』、268、272頁〕。 1932年明治大学を卒業後、東京市の深川にあった藤倉電線に入社。東京倶楽部の一員として第6回全日本都市対抗野球大会に出場〔。開幕第1戦に三塁手兼投手として出場するが、この大会優勝した全神戸に田部の三塁への暴走等で敗れた〔。明治在学中から日活のトップ女優であった伏見信子・直江姉妹と付き合っていたといわれマスコミを賑わせた〔〔。しかし仲が良かった苅田久徳の著書他によると本命は東京日本橋の老舗乾物問屋のお嬢さんで、彼女との恋愛を周囲に反対され、すべてが嫌になり忽然と姿を消したといわれる〔。日本を去って南洋ジャワ島の開拓に行ったと当時の雑誌に書き立たれたが、実際は山口県の小さな鉄道会社の身を落ち着けた後〔〔#菊池109-111頁〕、1934年に福岡県の九州電気軌道(西日本鉄道の前身)に転職し〔車掌をしていた〔〔。 関係者が奔走し、たまたま地方紙の記者が田部の存在を知っていたため1934年、満州・朝鮮の有名選手の「全日本チーム」入りを口説いた帰途の三宅大輔に勧誘され、3年ぶりに上京し大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加し入団〔。結成時の背番号は3〔。仲立ちしたのは小西得郎で、大日本東京野球倶楽部在籍時には松本瀧藏宅に住んでいたという〔。1935年の内地巡業時に背番号が1となり〔竹中半平『背番号への愛着』あすなろ社、1978年、26頁〕、初代主将二出川延明の退団に伴い、2代目主将となる〔巨人歴代主将一覧(日刊スポーツ公式サイトより。2008年11月26日更新) 〕。東京六大学出身で端整なマスクに、ショーマンシップ溢れたプレースタイルは、男女問わず非常に人気が高かったといわれる。また伝説的な韋駄天選手として知られ、1935年の第一次アメリカ遠征では、主にトップバッターとして109試合で105盗塁という驚異的な数字を記録、また本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」と、アメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた。帰国後、巨人が巡業試合で東京鉄道局野球部(現JR東日本硬式野球部)に2敗したため、東京鉄道局の藤本定義が巨人の監督に招聘されたが〔#ジャイアンツの歴史83頁〕〔#われら野球人197-198頁〕、東京鉄道局がマークしたのが田部と沢村栄治だった〔。東京鉄道局は田部対策として内野安打での出塁を防ぐ前進守備の田部シフトを敷いた〔。翌1936年にもアメリカ遠征に参加。この年は全75試合でチーム17本の本塁打中、2本を放ち、投手としても5試合登板した。沢村と二人だけ写真入りで取り上げられ共にメジャーリーグから勧誘を受けた。帰国後、主将としての役目上選手の不満を代弁して球団上層部と衝突、これが原因で巨人軍を退団(主将の後任は津田史郎)。沢村を先頭として選手たちのあいだにチーム内の学閥に対する不公平などへの不満があり、渡米前に他チームへ移籍させられた三宅大輔と苅田久徳の復帰、頼りない浅沼誉夫新監督の勇退を要求する声が強く、田部主将と水原茂副将を中心に、署名捺印を連ねての正力松太郎に直訴したが受け入れられなかった〔。田部と浅沼は八十川ボーク事件で因縁があり、浅沼は田部を嫌っていたといわれる〔#菊池163頁〕。田部と水原はアメリカから帰国後は三宅が監督となった阪急軍に転じるつもりであったが、移籍は認めないという規定が契約書に含まれており窮地に追い込まれ、同年日本初のプロ野球リーグが開幕したが、プロ野球から離れた〔水原はやがて有力者の尽力で巨人軍に復帰。田部は妥協しなかったという(『大連港で』、p273)。〕。 同年秋、岐阜県在住の田部の後援者が、田部を筆頭に杉田屋守らと関西鵜軍(コーモラント、鵜飼の鵜の意)なる新球団を計画するがマスコミ発表のみで頓挫〔『明治大学野球部史〈第1巻〉』、272頁〕。その際、コーモラントの幹部から料亭で千円という破格の契約金を記した小切手を提示され、水原は断ったが田部は受け取った、しかし有力者の事業の失敗で話は潰れ小切手は不渡りとなった、このため水原は巨人軍に復帰できたが。田部はプロ野球への道は閉ざされたという説がある〔〔#菊池169-170頁〕。しかしこのチームの監督を田部が小西得郎に薦め、頓挫した事で大東京軍のマネージャーに相談、これが縁で鈴木龍二に会った小西が鈴木の気性に惚れ、その後職業野球とかかわる事になった〔〔小西得郎『したいざんまい』 実業之日本社、1957年、131、132頁〕。小西は「ぼくが明大入りの橋渡しをした田部のすすめで、実はぼくは"プロでやってみよう"という気になったんだよ。後年、私が日本のプロ野球に少しでもお役にたてたとしたら、いってみれば田部のおかげなんですよ」と話している〔。 こうして田部は1936年〔(1937年とも〔『大連港で』、p286〕)日本を去り再び満州大連に渡る。当時の大連は日本から続々と、大きな仕事をやろうと胸をふくらませた男たちが渡って行った時期。田部はトラック運送業を始め事業も成功した〔。大連実業に復帰し「もうややこしいことを考えて野球をするのがイヤになった」「実業野球を楽しみたい」と話していたといわれる〔。1940年第14回都市対抗野球大会には、大連実業のエースとして出場(準優勝投手)。この大会でもポジションをころころ代えたり、1番投手で出場するなどで観客を沸かせた〔。1942年、戦前最後の大会となった第16回都市対抗野球大会にも出場。1944年、大連で現地召集され、戦況悪化の激戦地、沖縄に向かう。 1945年、地上戦最中の6月、沖縄摩文仁海岸で機関銃の乱射を受け死亡したとされるが、没日ほか詳細は不明。満39歳没。 東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に、彼の名前が刻まれている。 、野球殿堂入り。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「田部武雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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