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由利 維平(ゆり これひら、生年不詳 - 文治6年(1190年)〔斎藤寿胤「由利氏【維平 これひら】」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074〕)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。出羽国(秋田県)を本拠地とした豪族で、藤原泰衡の郎党から御家人となったと見られている。由利維安(維友とも)の八男で、子に維久。中八と号した〔。 == 経歴 == 出羽国沿岸中部の由利地方(現秋田県由利本荘市)の豪族であったと言われる〔。由利氏は家伝によれば、大中臣良平が源義家に従い由利半郡を賜ったのが始まりとされているが、清和源氏頼光流とする系図もあり、安倍氏説〔本荘市『本荘市史』史料編Ⅰ下〕、中原氏説〔象潟町『象潟町史』通史編上 古代・中世編、2002〕も存在するなど不明な点が多い。 『吾妻鏡』に二度記載されており、一度目は奥州合戦時に藤原泰衡の郎党として登場し(由利八郎)、二度目は大河兼任の乱時に御家人として現れる(由利中八維平)。一部には『吾妻鏡』の頼朝挙兵時の記事にある中八維平を後者と同一人物と見て、八郎と中八の二人を別人とする見解も存在する〔佐藤憲一「幻想の由利原」『鶴舞』第33号 本荘地域文化財保護協会、1977〕〔小野寺公二「二人の由利氏」 『東方に在り』第2号 平泉文化会議所、1997〕。この見解では八郎は御家人となった後の記録が無く、中八は奥州合戦で由利地方を恩賞として賜ったとする。 八郎は、奥州合戦において泰衝の命により、出羽口を田河行文、秋田致文らと守っていたが、鎌倉軍に敗れ、宇佐美実政に生虜りになった〔。捕虜の身でありながら「運尽きて囚人と為るは、勇士の常」と堂々とした態度で梶原景時の無礼をたしなめ〔、畠山重忠が礼を尽くすと尋問に応じた〔。それを見ていた源頼朝も「勇敢の誉れ有るに依って」罪を許した。 二度目の記載では、大河兼任の乱に際し、文治5年(1189年)12月24日、工藤行光、宮六傔仗国平らと陸奥国に先発し、小鹿島の大社山毛々左田の辺(現秋田県秋田市大森山・新屋付近か?)で討ち死にした〔とある。後に戦況報告を聞いた頼朝が、その報告中に「小鹿嶋橘次公成討ち死に由利中八維平逃亡」とあったことに対し、二人の性格から「由利維平討ち死に橘次公成逃亡」の間違いだろうと推察し、そのとおりであったことからその場にいた一同皆驚いたという逸話がある。しかし、『吾妻鏡』の論調としては援軍の到着を待つべきであったとして必ずしも維平を賞賛していない。 子の維久は和田合戦に連座して所領を没収されたと言われる〔鈴木登「由利氏」『秋田大百科事典』 秋田魁新報社、1981年、ISBN 4870200074〕が、子孫は由利地方に土着、滝沢氏と称し由利十二頭の一として後に最上氏、続いて六郷氏の配下となり幕末に至った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「由利維平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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