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由良 哲次(ゆら てつじ、1897年 - 1979年3月)は、日本の歴史哲学者、日本史家、美術史家、浮世絵蒐集家。横光利一の『旅愁』のモデル。 == 経歴 == 奈良県奈良市丹生町にて、丹生神社の神官の家系に生まれる。旧制の三重県立第三中学校(現在の三重県立上野高等学校)に在学中、1級下の横光利一と親交を結ぶ。父の事業の失敗により経済的に困窮し、滋賀県立師範学校に学ぶ。大津市南尋常小学校で2年間の教員生活を送った後、1918年に上京し、東京高等師範学校に入学。三宅米吉と峰岸米造のもとで古代史と考古学を修める。1924年、京都帝国大学哲学科に入学。西田幾多郎と田辺元のもとで哲学を修め、哲学雑誌『理想』に論文を発表。1928年7月、シベリア鉄道経由でドイツに留学。ベルリンでドイツ語を学んだ後、ハンブルク大学に入学。エルンスト・カッシーラーのもとで博士論文『精神科学と意志法則』を完成。このころ、ハイデッガーやフッサールを訪問している。1931年、日本に帰国。東京高等師範学校で哲学を教える。1939年、『政界往来』の懸賞論文に応募して第一席となり、近衛公爵賞を受ける。1940年、日本大学芸術科教授に就任。国家主義哲学者としてナチス・ドイツに範を求め、日本固有の道徳思想に基づく民族教育の徹底を主張していたが、日本の敗戦により教職を辞し、1946年、東京都練馬区石神井の自宅に富士書店という出版社を設立。戦後は在野の研究者として古代中世の日本史と近世の日本美術史に関する論文を執筆した。葛飾北斎と東洲斎写楽の同一人説を主張。1976年、伊賀上野公園内に「横光利一 青春の碑」を建立。利殖の道に明るく、奈良県新沢千塚群集墳保護のため奈良県に私財1億円を寄付した他、奈良県立橿原考古学研究所に3億円の寄付をおこない、由良大和古代文化研究基金を設置した。1979年、食道癌のため東京大学医学部附属病院で死亡。彼が蒐集した美術品の数々は、死後、奈良県立美術館に寄贈された。遺産の総額は時価10億円を超す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「由良哲次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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