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甲斐 常治(かい じょうち)は、室町時代中期の武将。常治は落飾後の法名で、諱は将久(ゆきひさ〔「将」の字は元々斯波義将の偏諱に由来するものであり、これを将教、将久父子が用いていた。義将には「よしゆき/よしまさ」の2通りの読みがあるので、後者にならって「将教(まさのり)」「将久(まさひさ)」という読みも考えられる。〕)、永享年間に常治と名乗る。官途は美濃守。父は甲斐将教(ゆきのり〔)、子に甲斐敏光。近江守の官途を持つ弟がいる(実名不詳)。応永27年(1420年)から斯波氏執事、越前・遠江守護代を務めた。 == 生涯 == === 持種との対立 === 斯波義淳の代から執事として仕えていたが、永享5年(1433年)に義淳は死去。その異母弟で常治にとっては従兄弟にあたる義郷が家督を継承したが3年後の永享8年(1436年)に事故死、遺児の千代徳丸(義健)が幼少のため、分家の斯波持種と共に千代徳丸の後見人を務めた。大和永享の乱では室町幕府の命令を受けて持種と共に大和へ出陣、関東で永享の乱が発生すると持種・朝倉教景と共に千代徳丸に代わって関東へ出兵した。 斯波氏では幼少の当主が続いたため、実権は「被官人等評定」に移り、常治は評定において、斯波氏執事としての立場から事実上斯波氏を取り仕切っていた。しかし、常治は傲慢な振る舞いをしていたらしく、管領で当主でもある斯波義淳を評して「管領の器にあらず」などと公言していた。 そのため、斯波持種や二宮氏・島田氏などの他の被官人は、当主をないがしろにする常治の専横に業を煮やし、京都にある常治の私邸を放火したり、討伐計画を企てたりするなど(討伐計画自体は義健の舅吉良義尚の仲介により未遂となる)、常治と対立することとなる。 更に文安3年(1446年)9月、持種は加賀へ出兵。守護職を巡って対立している富樫氏の当事者の1人富樫泰高に肩入れし、泰高の甥成春を追放したが、斯波方にも多くの死傷者を出している(加賀両流文安騒動)。常治と持種派の家臣団はこの時の対応を巡って対立したともされる(持種派は出兵に賛成、常治は反対)〔福井県、P460 - P464、石田、P36 - P39、P99 - P102。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲斐常治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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