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甲斐氏(かいし)は、日本の氏族の一つ。肥後の藤原北家菊池氏流と、越前の守護代甲斐氏の二流が確認される。 == 甲斐氏 == 肥後の菊池氏の庶家のうち日向高千穂に土着した国人衆で、戦国時代に阿蘇氏重臣となった家系である。 甲斐氏は、鎌倉時代、元寇で活躍した菊池武房の第三子武本(武村とも)に始まる。武本は家督を甥の菊池時隆と争い、鎌倉に訴訟を持ち込んだが敗訴し、憤激した武本は時隆と刺し違えて死んだと言われる。武本の子の武村(またはその子の重村)は、後難を恐れて甲斐都留郡に逃れて住んだ。これが後に甲斐氏を称した由来である。 重村は南北朝初期から足利尊氏に従って、肥後守護にするとの口約束を受けた。喜んだ重村は、家号を「甲斐」と改め、延元3年(1338年)、九州に下向し、大友氏の援軍とともに肥後へ進出した。しかし、南朝方の菊池武重と合志郡鞍嶽の麓で合戦して敗れ、その夢はかなえることができなかった。その後、豊後に走り、次いで日向縣(あがた)に土持氏を頼って逃れて、ついには高千穂鞍岡(現、五ヶ瀬町内)に土着して同地の国人となった。 この重村の四世子孫が甲斐親宣である。阿蘇氏の内証により、前阿蘇大宮司阿蘇惟豊が甲斐氏の先祖と同じように郷里を追われて鞍岡に隠れ住んだ境遇に、甲斐親宣はいたく同情して、永正14年(1517年)、阿蘇惟豊に与力して矢部浜の館に復させ、それにより地位を確立。敵対勢力を破り、惟豊を阿蘇郡に戻し、以後、その重臣として阿蘇氏を補佐することになった。 天文10年(1541年)、その子甲斐親直(宗運)は、島津氏に内通して阿蘇大宮司に背いた御船房行を益城郡の御船城に攻めて御船城主となり、筆頭家老として軍事外交両面において阿蘇氏を支えた。以後、甲斐氏は肥後、日向、豊後、薩摩の各地に拡大した。 現在、甲斐姓は、江戸時代に延岡市に居城を構えた旧内藤藩領内の西臼杵郡高千穂町や五ヶ瀬町を中心とした宮崎県北部から、熊本県の阿蘇の外輪山一帯、大分県南部の九重連山付近にかけて、非常に多く分布している。 なお、家紋は阿蘇氏と同じ「違い鷹羽」である。親宣は「三つ巴」を用いたこともあったが、これは高千穂神社の神官三田井氏の麾下にあった時、その家紋である「三つ巴」を用いたもので、阿蘇氏の重臣となってからは「違い鷹羽」を用いたと言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲斐氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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