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甲相同盟(こうそうどうめい)は、戦国時代の軍事同盟。ともに戦国大名である甲斐・武田氏と相模・北条氏との間で結ばれた同盟。 == 戦国時代の甲相関係と地域情勢 == 戦国時代に騒乱状態となった関東地方や東国において、甲斐では守護武田氏による国内統一が進んでおり、新興大名であった伊勢氏(後北条氏)は駿河の今川氏と駿相同盟を結んで関東へ進出し、山内上杉家と扇谷上杉家の両上杉氏や古河公方の足利氏と敵対していた。 ところが、武田氏当主武田信虎が国内統一を達成すると状況が一変する。信虎は甲斐国内の国人領主を支援していた今川氏との敵対関係を解消して和睦し、天文6年(1537年)に今川義元と甲駿同盟を結んだ。甲駿同盟の締結は駿相同盟を破綻させ、今川氏と北条氏の間で河東の乱を引き起こす結果となり、信虎も扇谷上杉家の救援要請に応じて甲相国境に近い国衆小山田氏の領する都留郡において北条氏と敵対し、天文4年(1535年)には山中の戦いなど大規模な合戦も行っている。 信虎晩期から武田晴信(信玄)期に信濃侵攻を企図した武田氏は、信玄期の天文13年(1544年)に両上杉氏を当面の敵としていた相模の北条氏康と和睦を結び、ここに甲相同盟が成立する。同盟は同年正月1日には信玄側近の駒井高白斎・向山又七郎両名が郡内領主小山田氏の居館である谷村館(山梨県都留市)を訪れ、翌2日には後北条家臣桑原盛正と会談している(『高白斎記』)。翌天文14年に行われた武田氏の信濃伊那出兵では後北条氏が援軍を送っており、天文13年の間に同盟が締結されたと考えられている。 翌14年(1545年)の第2次河東一乱で信玄は一時義元と結び氏康と対陣するも、今川・北条間の和睦を仲裁して両家に大きな「貸し」を作った。そしてこれによって関東へ転戦できる状況を得た氏康は、河越城の戦いで大逆転勝利を飾る。後年さらに三河における織田氏との対立問題を抱える義元を加えて、三家で婚姻関係を結び直し、攻守同盟として機能する甲相駿三国同盟に発展させ、甲相同盟はその一角となった。 信玄は三国同盟を背景に信濃侵攻を本格化させ、北信諸族を後援する越後の長尾景虎(後の上杉謙信)との対決傾向を強め、数次にわたる甲越対決(川中島の戦い)を展開する。また氏康は北関東侵攻において、関東管領の上杉憲政を庇護し山内上杉家と関東管領を継承することになる謙信と対立することになった。共通の敵である上杉(長尾)に対し甲相同盟は相互に出兵要請を行うなど軍事同盟として有効に機能しており、謙信は二正面作戦を余儀なくされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「甲相同盟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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