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申 鉉俊(シン・ヒョンジュン、、1915年10月23日 - 2007年10月15日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。創氏改名による日本名は宇田川義人。 大韓民国海兵隊の設立に関わり、1949年から1953年まで初代司令官。仁川上陸作戦に韓国海兵第1連隊長として参加した。銀星章授与者。''、1915年10月23日 - 2007年10月15日)は、大韓民国の軍人、外交官、政治家。創氏改名による日本名は宇田川義人。 大韓民国海兵隊の設立に関わり、1949年から1953年まで初代司令官。仁川上陸作戦に韓国海兵第1連隊長として参加した。銀星章授与者。 == 人物 == 1915年10月23日、日本統治下の朝鮮半島、慶尚北道金泉郡(現在の金泉市)で生まれる〔。 本貫は平原。1919年2月、親とともに満州に移住し、長春やハルビン付近の農村を転々としながら成長した。生活が苦しくなると1928年1月に貧民救済機関であるハルビンの仁和寮に移住した。1928年、ハルビン普通学校で小学生課程を修了。 1932年2月、ハルビン普通学校高等科を中退して、第14師団参謀の立石方亮大尉の専属通訳として従軍。1934年2月、関原六大佐の勧誘で満州国軍第5軍区顧問部に通訳として勤務。1935年3月から歩兵第34団本部の通訳として勤務。1936年、奉天の満州国軍官学校に入学。1937年9月、卒業(第5期)。同期に金燦圭(のちの金白一、韓国陸軍中将)、丁一権(韓国陸軍大将、国務総理)などがいた。卒業後は迫撃砲中隊に見習軍官として勤務した後、12月に少尉に任官した。 排長として抗日パルチザン討伐に参加。1938年4月、第5軍管区隷下の第5連に配属。同年12月から第6管区延吉司令部に赴任して間島特設隊創設要員として活動。1940年、宇田川義人に創氏改名。同年11月、国境事変従軍記章を受章。同年12月から琿春農業高等学校や琿春協和会傘下の青年訓練所の配属将校となった。1941年3月、中尉に昇進。同年2月、安闘県青年訓練所の配属将校。 1943年4月、間島特設隊に原隊復帰し、機迫連(機関銃迫撃砲中隊)に勤務した。機迫連には白善燁少尉が居り、一緒に勤務していた。同年12月、熱河省に出動。1944年3月、上尉に昇進。同年8月に歩兵第8団第6連連長に任命され、八路軍と交戦した。第8団には朴正熙や李周一などがいた。 太平洋戦争終戦後は、日本人将校と朝鮮人将校は職位解任、武装解除された。歩兵第8団第3営第7連に専属して9月に密雲に到着すると部隊を離れ、朴正煕や李周一と共に北平に移動した。北平で金学奎将軍の光復軍第3支隊に所属。申鉉俊は第3支隊平津大隊長として活動した。1946年5月6日に米軍の輸送船に乗り、8日に釜山港に到着した。 丁一権の勧誘で同年6月に、韓国海軍の前身となる韓国沿岸警備隊〔1948年8月15日より正規の国軍として大韓民国海軍となる〕に、見習士官として機関銃第2分隊に配属された。12月、任中尉(80088番)。1946年から1948年まで仁川・釜山基地司令官〔。 1949年4月15日、約380人の兵力を基に海兵隊が創設されると、中佐で初代指揮官を務めた。韓国軍内では朴正煕、金白一、丁一権、元容徳、白善燁らと満州人脈を築いていた。 1950年9月15日の仁川上陸作戦には韓国海兵第1連隊長として参加した。1953年より、新たに創設された海兵隊第1旅団〔現在の第1海兵師団〕の初代旅団長。その後、連合参謀本部情報局長、鎮海基地司令官、国防部次官補を歴任。1961年に海兵隊中将で予備役編入〔。 1963年よりモロッコ駐在大韓民国大使。その後、バチカン駐在大韓民国大使、第5代世界反共連盟事務総長〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「申鉉俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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