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町野 主水(まちの もんど、天保10年11月25日(1839年12月30日) - 大正12年(1923年)6月9日)は、幕末の会津藩士。 ==経歴== 父・町野伊佐衛門閑栄、母きとの子に生まれる。通称は源之助、諱は重安。は槍の達人で、弟の久吉(きゅうきち)とともに、鴨居に半紙を吊るし、それをえいっと槍で通すと半紙は少しも動かなかったという。 元治元年(1864年)、京都守護職本陣に向かう途中、桑名藩士を斬り、到着後入牢。7月禁門の変で牢を破り一番槍を目指すが窪田伴治に続き飯河小膳とともに二番槍の功名を挙げるも越後国蒲原郡津川で謹慎。 慶応4年(1868年)御蔵入奉行兼幌役を命ぜられた主水は、会津藩飛領である越後の小出島に赴任し、三国峠を守備するも4月24日の戦いで実弟・久吉を戦死させたのち小出島まで撤退、さらに攻められて越後戦線へ移動した。8月11日、佐川官兵衛の後任として最精鋭の朱雀士中四番隊の隊長に就任、北越戦線を転戦するが鶴ヶ城下に官軍が侵攻したとの報に接し、急ぎ城下に戻る。熊倉の戦いを会津軍大勝利に導いた後、一ノ堰の大激戦の最中に陣将・萱野長修の命により軍事奉行・樋口源助とともに鶴ヶ城に入城し、藩主・松平容保に米沢藩からの降伏勧告を伝える。9月7日 母きと、妻やよ、姉ふさ、長女なを(7才)、長男源太郎(3才)の5人が河沼郡坂下勝方寺の裏山で自刃、叔母・南摩勝子はその二人の男子(9才、4才)を刺し自害した。家僕の誤った戦況報告により死を急ぐに至ったといわれる。七才になる長女なをは、怖がって泣くので「お城にいらっしゃるお父様のご無事をお祈りしましょう」というと手を合わせ瞑目したので、その瞬間に主水の配下の大竹豊之助が涙ながらに介錯したとのことである。 開城後「謹慎ノママ居残リ取締リ申付ル」との新政府軍軍務局からの達しを受け、「若松取締」に任ずる。この間、伴百悦らと戦死者の埋葬に尽力した。会津松平家が再興を許された際、立藩の地を猪苗代盆地か下北半島かの選択を迫られ、主水は強く猪苗代を推したが、結局、山川浩らが推す下北の地に決定した。斗南藩である。明治3年(1870年)容保の子・松平容大が斗南藩知事となる。明治7年(1874年)、佐川官兵衛中心に300名の旧会津藩士が警視庁巡査として採用される。 明治期主水は斗南へは移住せず、若松北小路52番地に居を構え、当地の復興に全力を傾注した。明治6年(1873年)鶴ヶ城を陸軍省が売りに出し、主水は862円で落札した。しかし翌7年(1874年)城は取り壊しになった。明治9年(1876年)主水は鹿島県(佐賀県)土木課御用掛に就く。 自由民権運動の高まりの中で、主水は明治15年(1882年)6月、諏訪伊助、辰野宗治と連名で会津帝政党を設立、当時福島県令の三島通庸の三方道路建設に寄与、清水屋旅館事件に関わる。翌明治16年(1883年)10月、二番目の妻いし(33歳)を喪う。この二人の間に誕生したのが町野武馬(1875-1968、張作霖顧問、衆議院議員)である。明治17年(1885年)、主水は大沼郡長に登用される。のち正八位に叙される。明治20年(1887年)、梅宮兵三郎の長女マツと三度目の結婚。主水48歳であった。 晩年は大正元年(1912年)、狼藉者を無礼討ちにするなど武弁ぶりを発揮、会津弔霊義会の発起人代表を務めたが、大正12年(1923年)、齢85で没した。最後の会津武士といわれた。墓は会津若松市の融通寺。戒名は武孝院殿顕譽誠心清居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「町野主水」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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