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畑中正人 : ミニ英和和英辞書
畑中正人[はたなか まさと]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はたけ]
 【名詞】 1. field 
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中正 : [ちゅうせい]
  1. (adj-na,n) impartiality 2. fairness
: [ただし, せい, しょう]
 【名詞】 1. (logical) true 2. regular 
: [ひと]
 【名詞】 1. man 2. person 3. human being 4. mankind 5. people 6. character 7. personality 8. true man 9. man of talent 10. adult 1 1. other people 12. messenger 13. visitor 1

畑中正人 : ウィキペディア日本語版
畑中正人[はたなか まさと]
畑中 正人(はたなか まさと、Hatanaka Masato、 1975年1月24日 - )は、日本の作曲家、サウンドデザイナー、アレンジャー音楽プロデューサーキーボーディスト北海道枝幸郡浜頓別町出身。テレビマンユニオン音楽事業部所属。
== 略歴 ==
1975年北海道浜頓別町に生まれる。15歳から独学作曲を学ぶ。作曲をするきっかけは「ある日突然作曲がしたくなった」といくつかのインタビューで語っている。音楽に興味を持つ以前はサッカーに没頭しており、それまでは特に音楽に深い興味を持つことはなかったが、映画音楽アニメサウンドトラックレコードカセットテープを買い込むなど少しずつ音楽に興味を持ち始めたという。一方では高校生の頃にNHK-FMで偶然聞いたアジアの現代音楽の野外コンサートの音色に衝撃を受け、以来真剣に音楽を勉強することを決意したという発言もしている。高校時代は本格的にシンセサイザーギタードラムマシンミキサーシーケンサーなどをアルバイトで購入し作曲、ピアノ演奏和声法、対位法管弦楽法音響学MIDIなどを同時進行で独習、また民族音楽についての研究も行った。
高校当時すでに学園祭のイベントや劇のためのオリジナル曲や効果音などを制作していた。その一方でレコーディングやステージ音響、サウンドデザインなどにも興味を持ち、1993年北海道浜頓別高等学校を卒業後、札幌市の経専学園放送芸術専門学校・レコーディング学科に進学。引き続き音楽を独学で学びながら学校では主に録音技術やステージ音響、音楽プロデュースについて学んだ。
1995年の卒業と同時に札幌市を拠点にプロとしてのキャリアをスタート。主に舞台音楽やイベント、企業VPや広告音楽などの分野で数多くの作品を手掛ける。同年札幌で開催されたアートイベント「ポロメンタ」で主催者の西村英樹や「ドクメンタ9」を監督したヤン・フート、オランダの芸術家エーフリー・プレースマンらとの出会いが大きな転機をもたらし、以後音楽以外の分野のアーティストと積極的に共作するきっかけとなった。
1996年にはNMA(ナウミュージック・アーツ)が主宰した即興演奏のワークショップに参加。当時講師として来札していた大友良英内橋和久、札幌在住のピアノニスト・宝示戸亮二らの演奏や音楽に対する考え方に畑中は大きな感銘を受け、その後の音楽活動に多大な影響を与えたと発言している。当時はノイズ音や環境音などサンプラーやシンセサイザーを駆使した即興演奏をソロやセッション、コンテンポラリーダンスとの共演などで行っていた。ボーカルの入ったオリジナル曲もいくつか発表していたが、作品の大半はインストルメンタルであった。現代美術のための音楽作品やサウンドインスタレーションなども数多く手がけていた。当時からCDアルバムを発売することに違和感を持ち、国内外のレーベルからのオファーがいくつかあったものの、消費の激しい音楽市場主義的なスタンスに馴染むことを拒み全て断っていたという。しかしながら2009年国内レーベルであるSTARNET MUZIKから「House of Voice」をリリース。これまで自主制作や企業とのコラボレーション等からリリースされた作品はあったものの、実質的に一般流通に乗せたアルバムとしてはこれが初となる。
1998年にはドイツハンブルク市で初のソロライブ。1999年にはドイツにおける日本年公式プログラムに招待され、ハンブルク市内のエルベトンネルで公演した。その公演を通じてハンブルクバレエ団のイリ・ブベニチェクやヘザー・ユルゲンセンらと共演し、以後交流を深めていく事となる。2000年よりクリプトン・フューチャー・メディア勤務。2001年には北海道岩見沢市の野外音楽堂「キタオン」でイリ・ブベニチェクらと「ボレロ2」を発表、世界初演された。
2002年更なる音楽表現を探求するためドイツ・ハンブルク市に移住。ドイツや日本の多くの友人、仕事仲間、恩人らの推薦を受けハンブルク州で外国人としては初の作曲家ビザを取得した。以後特に欧州のバレエ音楽の分野で活躍。ドイツでは主にバレエダンサーのイリ・ブベニチェクやヘザー・ユルゲンセンなど欧州のトップバレエダンサーたちに楽曲を提供。担当した舞台作品は欧州各国で数々の賞を受賞している。特に2003年コペンハーゲンで初演されたイリ・ブベニチェク振付「Prisoners of feelings(日本語名:『感情の囚われ人』)」はブベニチェク兄弟の深い精神性を表現した構成とそれを支えた音楽共に高い評価を得て、その後世界各国で再演された。翌2004年にはベルリン国際映画祭公式招待、また音楽作品として「ear opener 2」がドレスデンのCYNET_art04に公式招待を受けている。
2004年ベルリン国際映画祭参加後、突然東京への移住を発表。日本への帰国後は主に広告音楽の分野で活躍。ピアノ曲、器楽曲、テクノエレクトロニカ、またジャズロックなど幅広いジャンルの音楽を提供する一方、エステーソニーシャープなどのCMサウンドロゴNTTドコモのiウィジェットの起動音などの作品も手がけている。また近年は音の機能美を基調とした建築音楽を提唱し、2007年のミラノサローネでのヤマハデザイン展、2008年の三宅一生「21世紀人」展(21_21 DESIGN SIGHT)、ミラノサローネでの「CANON NEOREAL」展(2010年および2011年)、レクサスインターナショナルギャラリー青山、東京スカイツリーの450M天望回廊など、音と空間を結びつける活動でも注目を浴びている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「畑中正人」の詳細全文を読む




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