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畑 時能(はた ときよし、正安元年9月15日〔『畑時能の古戦場を偲ぶ』〕(1299年10月10日) - 興国2年/暦応4年(1341年))は南北朝時代・南朝方の武将。六郎左衛門。畑胤時の次男。母は久納養哲娘。子に時純〔「妙心寺史」〕、或いは能速〔「丹波志」〕。兄に時継。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。 畑氏の出自は『姓氏家系大辞典』では秦氏、『苗字尽略解』では多治比氏とされるなど諸説ある。 == 生涯 == 武蔵秩父郡出身。義貞に従って各地を転戦し、延元3年/建武5年(1338年)、義貞が藤島の戦いで平泉寺勢力に敗死すると、義貞の弟脇屋義助に従い、坂井郡黒丸城、千手寺城、鷹栖城を転戦、足利方の斯波高経と激戦を繰り返したが、ついには追い詰められ、鷲ヶ岳に郎党16騎で立て籠った。高経は、平泉寺が再び南朝に味方したと勘違いし、伊知地(現福井県勝山市伊知地)へ3千の軍勢を差し向けた。興国2年/暦応4年(1341年)10月22日、斯波勢へ突撃した時能は数時間に及ぶ激闘の末、肩口に矢を受け、三日間苦しんだ後に亡くなったという。 現在、合戦のあった場所は「伊知地古戦場」として勝山市指定史跡となっており、「畑ヶ塚」が立っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畑時能」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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