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伊達 邦寧(だて くにやす) / 留守 邦寧(るす くにやす)は、幕末の仙台藩一門第三席・水沢伊達氏第13代(留守氏第30代)当主。 == 生涯 == 天保元年(1830年)3月15日、水沢伊達氏第11代当主・伊達宗衡の五男として水沢に生まれる。幼名は福松。 天保14年(1843年)、元服し景道と名乗る。慶応元年(1865年)兄・邦命の死去により家督と知行1万6000石を相続し、水沢邑主となる。 慶応4年(1868年)戊辰戦争の際には、藩主慶邦の代理として白河口に出陣する。戦局の不利により藩論が恭順に傾くと、藩主の命で、降伏の正使となる。敗戦により、本藩が62万石からを28万石に減封され、邦寧も水沢領を失う。隠居した慶邦に代わり新藩主となった宗基の後見を務めた。 明治2年(1869年)仙台藩少参事。同年、胆沢県大参事となった安場保和に県庁給仕の人選を依頼され、旧臣の子弟片桐清治、斎藤実、後藤新平を推挙した〔片桐清治は、留守家の援助で同志社大学に進学後、牧師となる。斎藤実は、後に内閣総理大臣、子爵。後藤新平は、邦寧の元小姓。後に南満州鉄道初代総裁、外務大臣、伯爵。〕。安場の引き立てを受け、斎藤、後藤は栄達することとなった。明治4年(1871年)8月国幣社権宮司、10月権少教正。明治7年(1874年)11月22日東京で死去。享年52。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「留守邦寧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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