|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 畠 : [はたけ] 【名詞】 1. plowed (cultivated) field (ploughed) 2. kitchen garden 3. plantation ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 尚 : [なお] 1. (adv,conj) (uk) furthermore 2. still 3. yet 4. more 5. still more 6. greater 7. further 8. less ・ 誠 : [まこと] 1. (adv,n) truth 2. faith 3. fidelity 4. sincerity 5. trust 6. confidence 7. reliance 8. devotion
畠山 尚誠(はたけやま なおまさ、享禄4年(1531年) - 没年不詳)は、戦国時代の武将。畠山総州家7代当主。畠山在氏の嫡子。 == 生涯 == 享禄4年(1531年)、畠山総州家6代当主・畠山在氏の嫡子として誕生。仮名は、次郎。 父・在氏は、細川氏綱・三好長慶と細川晴元との戦いにおいて、晴元方に味方し敗れ没落したため、まもなく尚誠が家督を継承した。天文18年(1549年)には代替文書ともいえる観心寺への弾銭などの免除発給文書が発行していることから、この頃までには家督を継承していたと思われる。 天文19年(1550年)頃、総州家は基盤を大和国に移したと考えられている。天文20年(1551年)に家臣・平左衛門大夫誠佐(まさすけ)と遊佐越中守家盛などとともに河内奪回戦を行おうとしている。河内畠山氏(政長流)の内紛をついての計画であったが、三好長慶と結んだ畠山尾州家の基盤は強固なもので、試みは失敗に終わった。 その後、弘治2年(1556年)に畠山高政(政長流)が安見宗房とともに布施氏を征伐しようとした際に、尚誠は布施側に加勢するが、この頃の畠山総州家は大和(河内)の一勢力に没落していたといわれる。また、永禄8年(1565年)の三好氏による室町幕府将軍・足利義輝が暗殺(永禄の変)後、義輝の実弟で大和興福寺一乗院門主・覚慶(後の足利義昭)からの求めに応じ、覚慶を救援して一乗院からの脱出に尽力したという。 その後の消息は不明。一説には松永久秀の仲介で高政の家臣となったともいわれる。子孫は豊臣秀頼に仕えたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畠山尚誠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|