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畠山 義就(はたけやま よしひろ/よしなり)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名である。河内・紀伊・山城・越中守護。足利氏(足利将軍家)の一門にて室町幕府の三管領家の1つである畠山氏出身。父は管領畠山持国、母は側室。幼名は次郎、初名は義夏(よしなつ)。子に修羅、義豊(基家)。猶子に政国。 家督相続を巡って従弟の弥三郎政久・政長一派と対立、応仁の乱を引き起こす。 ==生涯== ===義就の出自=== 義就の母は、義就のほか、小笠原長将との間に持長〔 『二川物語』、『豊前豊津小笠原家譜』。長将の弟政康の子としているが、実際には長将の子とされる。但し、持長の生年の応永3年(1396年)から考えると疑問視する向きもある。〕を、飛騨江馬氏との間にも子をもうけている。また『東寺過去帳』には義就は皮屋の子であり、東寺の僧祐栄とは従兄弟であるとしている。これらのことから当時、義就の母は様々な異性と関係をもつ類の女性であり、持国の実子ではないとの説があったことが伺える。『大乗院寺社雑事記』には、「義就の元で暮らす桂女(遊女のこと)」の記述があり、一族の略系図が添えられている。それに拠れば、「土用」という名の女に「畠山之桂也」と書かれており、文明12年当時70歳であることが知られる。従って、義就は「土用」27歳の時の子である可能性が高いとする研究がある〔横澤信生「享徳三年四月三日畠山家分裂の実相」富山史壇157号、2008年。〕。 こうした事情により、義就は嫡子とはされず、石清水八幡宮の社僧になるはずであったが、12歳の時に俄に父持国に召し出されたことから、元々継嗣と決まっていた叔父持富とその子弥三郎政久・政長兄弟らとの凄絶な家督争いが勃発することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「畠山義就」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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