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楊 林(ヤン・リム、1898年-1936年)は紅軍の朝鮮系軍人。本名は金勳(キム・フン、김훈)。別名は楊寧、畢士悌、楊州平など。 のちに東北抗日聯軍第1路軍の基盤となった盤石工農義勇軍を組織した。 == 経歴 == 1898年、平安北道に生まれる。 1919年、三・一運動に参加。同年秋に中国吉林省へ渡る。新興武官学校で学んだ後、独立軍で活動する。1920年2月、北路軍政署士官学校軍事教官。青山里戦闘に参加。 1921年に楊州平の名で雲南陸軍講武学校第16期砲兵科に入学。1924年に優秀な成績で卒業した。 楊寧に改名して黄埔軍官学校に赴任。広州商団事変の鎮圧と第1次東征に参加。1925年1月、第3期学生隊第4隊隊長(上尉)。同年夏に中国共産党へ入党し、11月に国民革命軍第4軍独立団(団長:葉挺)第3営営長となる。1926年1月に黄埔軍官学校へ戻り技術助教、同年3月に技術主任教官(中校)となる〔。またこの頃、平安南道出身で楊と同じく三・一運動を経て抗日闘争に身を投じた李秋岳(이추악、本名:金錦珠)と結婚。 1927年、上海クーデターが起こると中国共産党によってモスクワ中山大学とモスクワ歩兵学校に留学。畢士悌に改名。 1930年夏に上海へ帰還し、楊林に改名した。中共東満特別委員会委員兼軍事委員会書記に任命される。 1931年、満州省委員会軍事委員会書記。のちに東北抗日聯軍第1路軍の基盤となった盤石工農義勇軍を組織する。 1932年7月、中央ソビエト区に到着。紅軍第1方面軍補充師師長、中華ソビエト共和国労働与戦争委員会参謀長、江西軍区会尋安軍分区司令員、工農紅軍学校総教官、紅軍第23軍軍長、中国共産党中央軍事委員会総動員武装部参謀長、軍区司令員、紅軍第1軍団参謀長などを歴任。 1934年1月、中華ソビエト共和国中央執行委員。 1934年10月、長征に参加。中央軍事委員会幹部団参謀長に任命される。1935年、延安に到着すると、第15軍団75師参謀長に任命されに参加。 1936年2月、東征に参加。山西軍閥と交戦。黄河渡河作戦で、先鋒部隊の第223団第1営を指揮して渡河を成功させるが重傷を負い戦死。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊林 (軍人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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