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登り石垣(のぼりいしがき)は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮半島の倭城の防備を固めるために採られた石垣普請の手法である。竪石垣(たていしがき)ともいう。 ==概要== 文禄・慶長の役において、大名たちの侵攻の拠点として朝鮮半島に倭城が築かれ、その多くは日本からの補給口となる船着場を確保するため、海岸や河川に近いところであった。本丸と天守は見晴らしが良く防備の要となる小高い丘や山の上にあったが、兵の居住建物等は補給口に近い平地にあったので、その間の侵入を防ぐため、本丸と港を取り囲むように山腹の両側に日本式の石垣を築造した。これを登り石垣という。 山腹からの敵の進入を防ぐという考え方は中国の万里の長城に通じるものであるものの、戦闘員保護のための局地的なものだった。また、築城の形体はほとんど平山城であり、曲輪の形態としては連郭式、梯郭式、輪廓式などがあった〔釜山博物館 學藝研究士:羅東旭 編「韓國の倭城」P6~7の「倭城の築造手法」による。〕。 なお、日本軍の撤兵後、天守や櫓は破壊されたか破損して消滅したが、登り石垣も含めて天守台その他の石垣はほとんど現存している。ただし、城によっては、石垣の角部数箇所が破壊されている。もっとも長大な登り石垣は熊川城(東に突き出た半島の城)にあり、山頂の本丸の北側の登り石垣の麓までの長さは600m、南側が400mである。 近年、中国・朝鮮半島・日本の築城交流史をうかがえる貴重な遺構として、韓国でも調査・研究が進んでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「登り石垣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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