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登川 誠仁(のぼりかわ せいじん、1932年11月18日 - 2013年3月19日〔登川誠仁さんが死去 戦後沖縄を代表する民謡歌手 沖縄タイムス 2013年3月20日閲覧〕)は、兵庫県尼崎市生まれ沖縄県育ちの沖縄民謡を主とする歌手。三線の名手でもあり、琉球民謡登川流宗家、琉球古典音楽湛水流名誉師範である。通称は「誠小(セイグヮー)」。また、早弾きを得意とし、かつてはエレキギターも演奏していた〔「戦後の数え唄」 - CD「青年時代の登川誠仁」、CD「チャンプルー・シングルスVol.2」収録参照。〕ことから、「沖縄のジミヘン」の異名を持つ。 「豊節」「戦後の嘆き」「新デンサー節」「緑の沖縄」など、作詞・作曲を多数手がけている。歌詞は一貫してウチナーグチにこだわる。楽器の工夫にも熱心で、三線の弦を2本ずつ6本にした六線やエレキ四味線(よみせん)を開発したり、舞踊に用いられていた打楽器・三板を改良して民謡に取り入れた。 == 来歴 == 戸籍名は「盛仁」で、登録ミスだという〔アルバム「HOWLING WOLF」ライナーノーツより引用。〕。沖縄県中頭郡美里村の東恩納地区(現うるま市)の農家に育つ。7歳から手製の三線に親しみ、毛遊びを覗き見て民謡を覚え、11歳でカチャーシーが踊れた。学校にはほとんど通わず8歳で喫煙、9歳で飲酒を始める。終戦後は米軍基地で下働きをする傍ら、物資の横流しで金を稼いだ。 16歳のとき、沖縄芝居の松劇団に加わり、地方(地謡)を始める。板良敷朝賢から三線を徹底的に仕込まれ、徐々に頭角を現し、琉球放送のラジオ番組「素人ノド自慢大会」で嘉手苅林昌と共に優勝した。1955年から芝居の舞台にソロで立つ民謡歌手となった。以後、各地で演奏活動を続け、喜納昌永・津波恒徳とのトリオなどでも人気を博した。民謡中心の舞台である民謡ショーを確立する一方でレコーディングも重ね、第一人者としての地位を固めていく。 1957年に小浜守栄や喜納らが設立し、1963年に再編された琉球民謡協会の執行部には最年少で名を連ねた。また1956年に知名定男を素人のど自慢大会で見出し、育て上げた。 1970年には、三線の楽譜である工工四に声楽譜を加えた「民謡端節舞踊曲集工工四」など、楽譜集を3冊まとめている。これらの功績に対して1976年、琉球民謡協会の第1回功労賞を受賞した。1984年から同協会会長を最長の6期務め、1998年からは名誉会長に就任した。1999年には同協会から琉球民謡名人位を受けた。1989年には沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定されている。三線以外の楽器に関しては、日本三板協会(後の沖縄三板協会)特別顧問でもあった。 音楽活動の他に、1999年公開の映画「ナビィの恋」(中江裕司監督作品)や、2002年に公開された同監督の「ホテル・ハイビスカス」に出演した。 2010年にはNHK沖縄放送局が制作したアナログテレビジョン放送終了啓発スポットに出演した。共演者はキャン×キャンや、県内全局放送CMに出演した舞踊集団・花やからの児童メンバーだった。 2013年1月下旬から肝硬変のため、沖縄市内の病院に入院していたが、2013年3月19日、肝不全で死去した〔〔登川誠仁さん死去、80歳 沖縄民謡の第一人者 琉球新報 2013年3月20日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「登川誠仁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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