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登石 雋一(といし しゅんいち、1932年 - 2012年9月11日)は、日本の映画プロデューサー、映画会社経営者である〔人物, p.333.〕〔登石雋一氏死去(元東映動画社長) 、時事通信、2012年9月18日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年12月3日閲覧。〕〔''Shun'ichi Toishi'', インターネット・ムービー・データベース 、2014年12月3日閲覧。〕〔''登石雋一''・''登石儁一''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年12月3日閲覧。〕〔''登石雋一''、文化庁、2014年12月3日閲覧。〕〔''登石雋一''、KINENOTE, 2014年12月3日閲覧。〕〔''登石雋一''、allcinema, 2014年12月3日閲覧。〕〔''登石隻一'' (表記誤記)、日本映画データベース、2014年12月3日閲覧。〕。東映東京撮影所で進行主任、企画者を務めた後、東映人事部長、次いで取締役企画製作部長・経営企画室長、東映動画(現在の東映アニメーション)代表取締役社長、東映化学工業(現在の東映ラボ・テック)代表取締役社長を歴任した〔〔〔鈴木常承 東映化学工業 、企業家人物辞典、2001年5月24日付、2014年12月3日閲覧。〕。本業の傍ら、劇映画や演劇への俳優としての出演作もあり〔〔東大演劇同窓会 誕生に至る経緯と背景 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第1回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第2回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第3回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第5回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第6回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第7回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第8回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第9回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第10回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第11回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第12回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕〔東大演劇同窓会第13回公演 、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕、十石 峻(といし しゅん)の別名ももつ〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1932年(昭和7年)、東京府(現在の東京都)に生まれる〔〔。 第二次世界大戦後、1951年(昭和26年)4月、東京大学法学部に進学〔、在学中は「東大演劇研究会」に参加して演劇活動に取り組み、同期には梶谷典子、成島庸夫、田村孟、三善晃、渡辺守章らがいた〔〔サルトル盲追 、登石雋一、東大演劇同窓会、2014年12月3日閲覧。〕。1955年(昭和30年)3月、同大を卒業、同年4月、定期採用第4期生として東映に入社した〔。本社文書課を経て撮影所製作課に異動、進行を務め、進行主任となってからの作品として、1960年(昭和35年)11月8日公開の『大いなる驀進』(監督関川秀雄)、1962年(昭和37年)3月21日公開の『恋と太陽とギャング』(監督石井輝男)が記録に残る〔。同年には企画部に異動になり、同年8月29日に公開された『東京丸の内』(監督小西通雄)では、上司の渡辺洋一に次いで企画者としてクレジットされた〔〔〔〔。1963年(昭和38年)6月14日に公開された『警視庁物語 全国縦断捜査』(監督飯塚増一)以降、同シリーズの最終作『警視庁物語 行方不明』(監督小西通雄、1964年12月5日公開)までの3作を、同作を立ち上げた上司の斉藤安代(1927年 - 2005年)とともに企画した〔〔〔〔。1964年(昭和39年)いっぱいで企画・製作の現場を離れた〔〔〔〔〔〔 累積赤字3億円を出していた東映動画(現在の東映アニメーション)には責任者として行くことを皆嫌がったが〔#活動屋人生、156頁〕、1971年(昭和46年)8月に東映社長に就任した岡田茂に言い含められ〔翌1972年(昭和47年)6月東映動画の代表取締役社長に就任(兼任)、岡田から強硬なリストラを命ぜられる〔〔#アニメーション映画史、131-133頁〕。岡田と登石は製作数を減らし、さらに従業員320名の半分の希望退職を募集〔。労組は激しく反発し、両者の間で団交が繰り返されたが、希望退職の募集を何度も延期し、のちロックアウトを敢行し5ヶ月間に約120名が退職、東映動画は存続した〔〔昭和47年 - WEBアニメスタイル 〕〔WEBアニメスタイル | アニメーション思い出がたり「五味洋子」その42 労働争議の中で - Style.fm 〕。岡田、登石と1974年8月、後任として岡田から東映動画社長に抜擢された今田智憲の尽力により〔〔#論叢18、14頁〕1970年代始めに3億円あった東映動画の累積赤字は一掃され、1981年(昭和56年)に東映動画は売上げ70億円、利益2億円を出すまで回復した〔。また1973年(昭和48年)3月17日公開の『パンダの大冒険』(監督芹川有吾)等を製作〔〔〔〔。1974年(昭和49年)には東映の取締役企画製作部長・経営企画室長に就任している〔〔渡辺・山口, p.131.〕。また1977年(昭和52年)6月9日 - 同11日、三百人劇場で行われた東大演劇同窓会第1回公演『』(演出岩淵達治、原作ベルトルト・ブレヒト)に出演、成島庸夫、田村孟、佐藤純彌らとともに「貧民」役を演じたほか〔、劇映画においても、1979年(昭和54年)7月21日に公開された『わが青春のイレブン』(監督降旗康男)に出演し、「サッカー部長」を演じた〔。同月には、企画製作部長を退任して後任の高岩淡(1930年 - )に引き継ぎ、東映の取締役経営企画室長の役職を残し、当時東京証券取引所第2部上場企業であった東映関係会社・東映化学工業(1961年10月上場、2007年3月27日上場廃止)の専務取締役に就任した〔キネ旬, p.165.〕。 1981年(昭和56年)、東映化学工業の代表取締役社長に就任するとともに、東映本社の取締役を退いた〔。1982年(昭和57年)5月15日公開の『ダイアモンドは傷つかない』(監督藤田敏八)でも、「八木」役で出演している〔。日本映画テレビ技術協会から、1998年(平成10年)度の第20回春木賞を受賞した〔春木賞 受賞一覧 、日本映画テレビ技術協会、2014年12月3日閲覧。〕。2001年(平成13年)6月27日、後任の鈴木常承(1934年 - )に引き継ぎ、東映化学工業社長を退任した〔。2007年(平成19年)、日本映画テレビプロデューサー協会を退会した〔会報 2007年3月号 、日本映画テレビプロデューサー協会、2014年12月3日閲覧。〕。 晩年は東大演劇同窓会での俳優活動にも取り組み、第4回公演以外は皆勤しており、2012年(平成24年)4月18日 - 同19日に日本橋劇場で行われた第13回公演『夏の夜の夢』にも「蜘蛛の糸」役で出演している〔。その5か月後の同年9月11日、腎細胞癌のため東京都江東区の病院で死去した〔。満80歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「登石雋一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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