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大阪府立登美丘高等学校(おおさかふりつとみおかこうとうがっこう、英称:)は、大阪府堺市東区にある公立高等学校。 全日制普通科を設置している。高校の愛称は「登美丘高校」を省略し、「トミコウ」と呼ぶことが多い。 == 沿革 == 南河内郡黒山村・平尾村・丹南村・丹比村・野田村・大草村・日置荘村の7か村(現在の堺市東区・美原区の大半、および羽曳野市の一部に相当)が学校組合を作り、1917年に大阪府黒山実業学校(現在の大阪府立農芸高等学校)を黒山村大字阿弥(現在の堺市美原区・堺市立黒山小学校付近)に創設した。 黒山実業学校の女子部を母体にして発展させる形で、学校組合は1924年3月22日、高等実践女学校の開設を決議した。1924年7月9日に文部省告示により大阪府黒山高等実践女学校の開設が認可され、同年7月21日に本科4年制・専攻科1年制の学校として開校した。 開設当初は黒山高等小学校および黒山実業学校と校舎を共有していた。1927年から1928年にかけて黒山高等小学校・黒山実業学校南側の隣接地(黒山村大字阿弥81番地)に独立校舎を建て、1928年に移転している。当時の校舎は、大阪市愛日尋常小学校(のちの大阪市立愛日小学校)の旧校舎を移築したものだった。 また1925年には泉北郡百舌鳥村・深井村・東陶器村・西陶器村および南河内郡南八下村の5ヶ村(現在の堺市の一部)が学校組合に加入し、12ヶ村の学校組合となった。 志願者や生徒数が増加したために学校経費が増大し、学校組合で運営する方式では経済的に困難になりつつあったことから大阪府への移管の声が高まった。1929年に学校組合を解消して大阪府に移管し、大阪府立黒山高等実践女学校となった。1941年には5年制の大阪府立黒山高等女学校へと改編された。1943年には戦時措置に伴う中等学校令により4年制に短縮されたが、終戦直後には5年制に復帰している。 学制改革により、1947年には高等女学校2・3年生徒を新制中学校に移行させる形で併設中学校を開設し(1949年閉鎖)、1948年には大阪府立黒山高等学校へと改編された。近隣に生徒交流のできる旧制中学校がなかったため、入学試験で新入生を募集する形で男女共学を実施した。翌1949年に初めての男子生徒が入学したことで、男女共学が実質的に開始された。 また1948年には、校舎を新制中学校・学校組合立黒山中学校(現在は統合で堺市立美原中学校)に明け渡すことになった。これに伴い黒山高等学校は、黒山村大字北余部にあった大阪府立農芸高等学校〔農芸高校(当時大阪府立農芸学校)は、1941年に大字北余部内で移転している。〕の校舎の一部を間借りすることになった。 大阪府は、黒山高等学校と農芸高等学校を統合して総合制高等学校にする案を検討していた。黒山高等学校側は了承したものの、農芸高等学校側が独立校としての存続を強く希望したため、この案は実現しなかった。このため、黒山高等学校は独立校舎に移転することを検討した。既設の私立高校の買収・公立移管によって私学と統合する形での移転も検討され、初芝高等学校と交渉に入ったとされるが、買収案は実現しなかった。また独立校舎の新設を検討し、設置場所をめぐっていろいろな案が出た末、最終的には南河内郡登美丘町大字西野(現在地)に独立校舎を新設することを決定した。 1952年4月に現在地に校舎が完成して移転している。移転と同時に現在の校名・大阪府立登美丘高等学校に改称している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大阪府立登美丘高等学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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