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白井 こう(しらい こう、女性、明治2年2月9日(1869年3月21日) - 昭和29年(1954年)7月25日)は、日本の教育者。岡崎学園高等学校の創立者。三河地方における女子教育の先駆者である。旧姓は山本。 田原町長を1901年(明治34年)から15年間務めた山本右太郎は次兄〔『岡崎の人物史』 246頁。〕。 == 経歴 == 三河国田原(現・愛知県田原市)に田原藩士山本源善の長女として生まれる。1888年(明治21年)1月、近所の田原小学校で教員に欠員が生じたため、校長から兄を通じて「代わりをやってもらえないか」との申し出を受ける。白井は1月から5月まで「渥美郡役所雇教員」の辞令で田原教学校の教壇に18歳で立つことになった〔『白井こう先生傳』 19-20頁。〕。 1890年(明治23年)10月30日、扶桑新聞記者で自由民権家の白井菊也と結婚。新居を名古屋市伊勢町に構えた〔『新編 岡崎市史 総集編 20』 198頁。〕〔。しかし1897年(明治30年)3月9日に夫の菊也が病に倒れ死去。二男一女の未亡人となった白井は裁縫の教員になること以外に生きる道はないと考え、1899年(明治32年)10月27日、30歳になる年齢で上京。11月1日付で東京市本郷の東京裁縫女学校(現・東京家政大学)速成科に入学した。 1901年(明治34年)1月19日、教員免許状はまだ取得していなかったが、名古屋市第三高等小学校(現・名古屋市立桜山中学校)に採用される。1902年(明治35年)2月1日、裁縫科専科正教員免許状を受領。 「これからの裁縫科の教員は和裁と共に、洋裁の理論や実技を身につけることが必要だ」と考えた白井は同年3月31日に同校を退職し、4月に再び上京、和洋裁縫女学校(現・和洋女子大学)研習速成科に入学した。速成科の名のとおり、7か月強で同校を卒業した。 1903年(明治36年)4月1日、愛知第二師範学校附属小学校(現・愛知教育大学附属岡崎小学校)の訓導に採用される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白井こう」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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