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白井 一幸(しらい かずゆき、1961年6月7日 - )は、香川県大川郡志度町(現:さぬき市)出身の元プロ野球選手(内野手)、プロ野球コーチ、野球解説者。 == 来歴・人物 == 志度東中学・志度商業高校・駒澤大学のすべてで主将を務めた。志度商では夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、丸亀商に完封負け。駒大に進学し、東都大学リーグではに、同期の鍋島博(NTT東京)、1年下の河野博文の両エースを擁し春秋季連続優勝。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で近大を降し優勝、明治神宮野球大会では東海大に敗れ準優勝。リーグ通算73試合出場、270打数89安打、打率.330、3本塁打、26打点。首位打者1回(春季)。5季連続5度のベストナインに選ばれた。1982年、1983年には日米大学野球選手権大会日本代表に選出される。 1983年のドラフトで日本ハムファイターズから1位指名され入団。即戦力として期待され、1年目のの開幕戦ではパ・リーグ新人選手では唯一の先発出場、初打席初安打の快挙。1年目から93試合に出場したが、当初は代走や守備固めでの出場が多かった。また、入団時は右打ちだったが、2年目頃から俊足を活かすため左打ちにも取り組んでいた。 当時、日本プロ野球界ではタブー視されていたウエイトトレーニングをいち早く取り入れ、長打力が増した入団4年目のに全試合出場を果たし、15本塁打、21盗塁の成績を残した。7月8日の対近鉄戦で左右両打席本塁打も記録している(3回に佐々木修、7回に石本貴昭から)。しかし、翌に足を骨折(阪急・ダラス・ウィリアムズのラフプレーによる)、に肩を手術。この2年はそれぞれ40試合、20試合の出場にとどまったがに自身最多の38盗塁。には自身最高でリーグ3位の打率.311を記録。また最高出塁率(.428)とカムバック賞を受賞した。好成績とケガによる低迷を繰り返していたため、「1年おきの選手」と揶揄されたりもした。 以後、持病のヒザ痛の悪化や若手の台頭もあって出場機会が減少。の秋季キャンプ中に突然、戦力外通知をされ、再起を賭けてオリックス・ブルーウェーブへ移籍した。翌は13試合の出場に終わり、この年限りで引退したが、この一年で中西太やイチローと出会い、学んだものは大きかったという。 から日本ハムの球団職員となり、米大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースでのコーチ研修へ。この頃、後に日本ハムの監督となるトレイ・ヒルマンと知り合う。 に二軍総合コーチ、に二軍監督を経てヒルマンが一軍監督に就任したからヘッドコーチとなる。7月にはヒルマン監督が実母死去のために一時帰国した際、監督代行を務めた。から内野守備コーチを兼任。 ヒルマン監督とは旧知の仲であり、また英語が話せるため、コーチとして非常に信頼を置かれていた。ヒルマン監督の退団に伴い、球団からファームディレクター就任を要請されていたが固辞、「野球を外から見る事になる」とコメントしていたが、はカンザスシティ・ロイヤルズの特別コーチ兼スカウトアドバイザーに就任することが決定し、ロイヤルズの監督となったヒルマンと引き続き仕事を行う一方、国内ではSTVテレビ・STVラジオ(2008年より)・北海道テレビ放送(2008年のみ)解説者、日刊スポーツ評論家に就任。2008年いっぱいでロイヤルズの職務を退任し、からは評論、講演活動に専念。 に横浜ベイスターズの二軍監督に就任し、駒大の先輩である中畑清が一軍監督に就任したに一軍内野守備走塁コーチに配置転換された。同年に退団〔来季のコーチ契約について 横浜DeNAベイスターズ 2012年10月10日〕。 、10月28日に日本ハムの内野守備走塁コーチ兼作戦担当に就任した事が発表〔白井コーチが就任会見 日本ハム球団公式サイト2013年10月28日配信〕。 自身の経験からメンタルが野球に及ぼす影響や、選手に前向きな気持ちを持たせる指導の大切さを唱えており、自らの指導法にも活かしているほか、自著「メンタルコーチング」も出版している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白井一幸」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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