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白井 新太郎(しらい しんたろう、1862年12月13日(文久2年10月22日) - 1932年(昭和7年)12月10日)は、日本の実業家、政治家。号は如海。 ==生涯== 会津若松城下で家禄500石の上級藩士である白井家の長男として生まれる〔『会津会雑誌第42号』「死亡会員略伝 白井新太郎君」〕。父の五郎太夫は林安定とともに藩大砲隊頭を務め、鳥羽・伏見の戦いで討死した。戊辰戦争後に再建された日新館(現会津高校)に学び、上京後は秋月悌次郎門下として勉学を続けた。1884年(明治17年)には東政図(東次郎)の中国赴任に随行。清国改造運動に加わった〔『新潮日本人名辞典』〕。一年後には日本へ戻り、井深彦三郎、中野二郎らと同居生活を送った〔*>のちに日本銀行支店長となる川島栄三郎も仲間の一人であり、白井らを援助したのが東海散士こと柴四朗である。〕。 中国との貿易に従事し、1891年(明治24年)には東邦協会の設立に関わり、幹事を務める。次いで水野遵の周旋によって台湾へ渡り、児玉源太郎、乃木希典、後藤新平ら日本の台湾統治に関わる要人の知遇を得た。白井は19歳の折に士官学校で経書を講義したことがあり、居合わせた乃木とは面識があった。白井の台湾入りには乃木の推薦もあったと伝わる。台湾総督府に事務嘱託として籍を持ち、また台湾商工公司を設立して後に顧問となり〔『衆議院要覧』〕、土匪の説得〔*>弾圧とする資料もある。〕や食塩専売制度の整備に従事している。 1906年(明治39年)に日本へ戻り、静岡県で電力、鉄道事業に携わる。生糸相場で財を成した実業家小野金六の出資を得て富士水力電気の設立に関わり、専務として経営に参画。駿豆鉄道の社長も務めて財を成し、1917年(大正6年)の第13回総選挙で若松市から当選。白井と次点の柴四朗との票差は1票で、無効とされた柴票の取り扱いを巡って大審院で選挙無効とする判決が下った。白井の所属は新政会である。 1921年(大正10年)には『社会極致論 』を著し、大隈重信、後藤新平の序文を得ている。晩年は一社を経営したが1931年(昭和6年)に病を得、翌年没。享年71。 白井は会津会の幹事総代を務め、また稚松会の賛助員であり、郷里に対して多額の援助も行った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白井新太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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