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白坂 依志夫(しらさか よしお、1932年9月1日 - 2015年1月2日)は、日本の脚本家である〔訃報:白坂依志夫さん 82歳=脚本家 、毎日新聞、2015年1月6日付、2015年8月19日閲覧。〕。本名は八住 利義(やすみ としよし)〔。市川市が特別協力する水木洋子の名を冠した「市川市水木洋子シナリオ賞」選考委員長。日本シナリオ作家協会全部委託承継会員〔著作者管理検索 検索結果、日本シナリオ作家協会、2015年8月19日閲覧。〕。 == 略歴 == 1932年(昭和7年)9月1日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔。父はロシア文学者から脚本家に転じ、映画脚本界の大御所として知られた八住利雄〔(1903年 - 1991年)、母の父(母方の祖父)が山本露葉(1879年 - 1928年)、母の実弟(母方の叔父)が山本夏彦(1915年 - 2002年)である。 中学生時代から、多作で知られた父のラジオドラマの脚本などを代作。成城学園高等学校卒業。早稲田大学文学部在学中は、左幸子や新東宝の若手俳優と劇団を結成し演劇活動に熱中するが、やがてアルバイトで脚本を書き始める。 1953年(昭和28年)に大学を中退。1955年(昭和30年)、大映東京撮影所に脚本家として入社する。ペンネームは、デビュー当時の阪神タイガースの二遊間コンビ、白坂長栄と吉田義男に由来するが、特にタイガース・ファンという訳ではなかった。 高校時代から交流があった三島由紀夫作品を原作とした『永すぎた春』(監督田中重雄、1957年)で注目され、1957年(昭和32年)、大映を退社し、各社と契約。『巨人と玩具』(監督増村保造、大映、1958年)〔、自らも出演した『野獣死すべし』(1959年、東宝、監督須川栄三)、『われらの時代』(監督蔵原惟繕、日活、1959年)と映画会社をまたにかけて、若々しい感性の作品をたてつづけに執筆し、日本映画界の若き才能として活躍する。また、1958年(昭和33年)にはテレビドラマにおいて、同年に完成した東京タワーを指す語をタイトルに、テレビの勃興を脅威に感じる映画界の人々を描く異色作『マンモスタワー』の脚本を執筆し、芸術祭奨励賞を受賞した〔樋口, p..〕。 同世代の若き文化人たち、大江健三郎、石原慎太郎、寺山修司、谷川俊太郎、武満徹、和田誠、伊丹十三らと盛んに交流した。増村保造とは名コンビとして、1978年(昭和53年)の『曽根崎心中』まで、多くの作品を作り続けた〔。大映倒産後には、増村映画のプロデューサーであった藤井浩明、増村とともに独立プロダクション「行動社」を起こした。 私生活ではプレイボーイとしても知られ、女優たちとの赤裸々な交際などを回顧したエッセイ『白坂依志夫の人間万華鏡』を月刊「シナリオ」誌に連載し、大いに話題を呼んだ。のちに別冊『脚本家白坂依志夫の世界 書いた!跳んだ!遊んだ!』としてまとめられた。門下生に石松愛弘、桂千穂がいる。中川三郎(1916年 - 2003年)の長女で女優の中川弘子(1936年 - )と結婚したが、のちに離婚した。 2015年(平成27年)1月2日、肺炎のため、東京都内の自宅で死去した〔〔脚本家の白坂依志夫氏が死去…三島作品を映画化 、読売新聞、2015年1月6日付、2015年1月6日閲覧〕。満82歳没。葬儀は近親者のみで行い、喪主は長女の竹宮映子が務め、白坂の死はその4日後の同6日に報じられた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白坂依志夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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