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白籏史朗(しらはた しろう、1933年2月23日 - )は、日本の山岳写真家。ヒマラヤを始めとする世界の峰、日本国内の名峰を四季にわたって数多く撮影し、発表してきた。特にライフワークとして南アルプスの写真を多く撮影している。 == 略歴 == *1933年(昭和8年)2月23日 - 山梨県北都留郡広里村(現大月市)に生まれた。育った土地の周囲は全て山であったという〔『山と写真 わが青春』p.32。〕。 *1945年(昭和20年)3月 - 大月東小学校を卒業した〔『山と写真 わが青春』p.45。〕。 *8月13日 - 空襲で自宅が半焼した〔『山と写真 わが青春』p.46。〕。 *1948年(昭和23年)3月 - 大月東中学校を卒業した。進学希望はあったが家庭の事情で〔『山と写真 わが青春』p.74。〕高校には進学せず家事を手伝っていた〔『山と写真 わが青春』p.50。〕。 *1951年(昭和26年)1月 - 父に写真志望を打ち明け、協力を求めた〔『山と写真 わが青春』p.55。〕 *3月下旬 - 岡田紅陽と面会。父からの熱心な願いに根負けしたのか「とにかくよこしてみなさい」ということになったという〔『山と写真 わが青春』p.56。〕。 *4月15日 - 岡田紅陽に師事、5年間内弟子として過ごした〔『山と写真 わが青春』p.57。〕。この5年間で自主的な山行は生まれ故郷付近の低山を日帰りで3回に留まった〔『山と写真 わが青春』p.108。〕。 *7月13日 - 岡田紅陽の荷物持ちで富士山に登り南アルプスを遠望して〔『山と写真 わが青春』p.95。〕、山岳写真を生涯の職業とする旨思い定めた〔『山と写真 わが青春』p.14。〕。 *1952年(昭和27年)8月 - 岡田紅陽の荷物持ちで赤抜沢の頭から北岳を見て、一生を山に生きる決心をした〔『山と写真 わが青春』p.94。〕。 *1958年(昭和33年) - フリーランスの写真家として独立した。しかし対人関係に疎く、騙されることも多く、何度も職を変えた〔『山と写真 わが青春』p.122。〕。 *1961年(昭和36年) - 『山と溪谷』3月号にカラー写真が掲載され、朋文堂主催の『山岳写真精鋭一二人展』に選ばれた。 *1962年(昭和37年)4月15日 - 山岳写真家として独立。金と時間が許す限りがむしゃらに入山し〔『山と写真 わが青春』p.144。〕、1963年までの入山日数は独立前の10年間の入山日数を超える入山237日となった。この後は1980年まで少ない年でも130日、多い年は200日、平均150日前後程度入山した〔『山と写真 わが青春』p.13。〕。 *8月17日 - 中央アルプス縦走中に、後に妻となる女性と出会った。第一印象は「この人は何の苦労もなく、いい気になって山などを遊びまわっている。のんきな身分でうらやましい」だったという〔『山と写真 わが青春』p.148。〕。 *1965年(昭和40年)11月29日 - 結婚。この時までに結婚資金として準備してあったお金でリンホフスーパーテヒニカとライカM3を購入し、結婚式が3回延期された〔『山と写真 わが青春』p.153。〕。 *1966年(昭和41年)8月6日 - コー・イ・セフェに初登頂した。 *1968年(昭和43年) - 日本山岳写真集団を創設した。 *1980年(昭和55年) - 1月までの累計入山日数は451回の山行で2866日に達していた〔『山と写真 わが青春』p.13。〕。 日本を代表する山岳写真家として、高い評価を受けている。山岳写真のほか、風景写真などを中心に活動を続け、写真集などの刊行物を多数出版している。〔白籏史朗山岳写真記念館ウェブサイト、http://www.town.hayakawa.yamanashi.jp/H-KANKO/SHIRAHATA/sirahata.html〕 *日本高山植物保護協会会長 *山岳写真の会「白い峰」会長 *日本山岳会終身会員 *日本写真家協会会員 などを歴任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白籏史朗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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