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結城 顕頼(ゆうき あきより、文明2年(1470年)頃? - 天文12年(1543年)頃?)は戦国時代の武将で、白河結城氏9代当主。結城政朝の嫡男で結城義綱の父。那須資永の兄。母は小峰直親娘。小峰義親の父といわれるが、定かではない。室は田村直顕(1474年没)の娘。宮内少輔、左兵衛佐。長渓道永。政頼、顕朝。 1495年に左兵衛佐に任ぜられた。 父である政朝が蘆名氏から後妻をめとり生まれた子(五郎)を寵愛して、老齢になっても顕頼に家督を譲ろうとしなかったため、既に壮年に達していた顕頼は身の上に不安を感じ、1510年、一族の小峰直常や岩城氏の援助を受けて父と五郎を追放し家督を継いだが、この内紛で白河結城氏の力は衰退し、所領を多く失った。 古河公方の内乱がおこると足利政氏方に味方している。後に那須氏の当主として養子になった弟資永が内紛の末自刃すると、永正17年(1520年)、報復のため岩城氏を誘って下野に侵略して那須資房・政資父子と争ったが、縄釣し台の合戦で打ち破られ撤退した。翌大永元年(1521年)には岩城氏が中心となって、宇都宮氏と小田氏が岩城氏の要請で援軍として出陣し、那須氏の山田城を攻め落とし、資房の籠城する上川井城を攻撃したが、両軍ともに損害が大きく、佐竹氏の仲介で岩城常隆の娘が那須政資に嫁ぐことで和睦となった。 1531年、白河結城家の祖・結城宗広が開基した長雲山智徳院を再興した。 なお、近年になって垣内和孝が結城義綱を顕頼の実子ではなく小峰氏出身者として、通説では天正の変の時発生したとされる小峰氏による白河結城氏の簒奪を永正年間の出来事として、政朝の後を継いだのは顕頼ではなく小峰氏から入った七郎(義綱)であったとする説を唱えている〔垣内和孝「白川氏・小峰氏と〈永正の変〉」(初出:『国史学』166号(1998年)/所収:垣内『室町期南奥の政治秩序と抗争』(岩田書院、2006年))〕。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「結城顕頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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