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白狼山の戦い(はくろうざんのたたかい)は、中国後漢末期の207年に、曹操と中国北部の異民族烏桓との間で行われた戦い。曹操軍は、袁尚・袁煕と同盟を結んだ烏桓を打ち破り、この戦いで烏桓勢力は大幅に弱体化し、後に魏や鮮卑の部族に吸収されることとなる。 ==事前の経緯== 190年代、袁紹と公孫瓚の抗争がまだ続いていた頃から、遼西烏桓を率いていた蹋頓は袁紹と誼を通じ、自らの精鋭騎兵部隊を援軍として送り込んで協力した。袁紹は公孫瓚の勢力を滅ぼす(易京の戦い)と朝廷の命令を偽造し、蹋頓らに印綬を与えた上で単于に任命した。袁紹は、自身の臣下の娘を養子にとり、烏桓の部族長らと婚姻させることにより、同盟を強化した。 200年、袁紹は官渡の戦いで曹操に大敗を喫し、202年に死去する。袁家一族は河北に強大な勢力をもっており、烏桓は袁紹の息子と関係を保った。袁紹が死んだ後、長男の袁譚と三男の袁尚(袁譚とは異母兄弟)は、それぞれ後継を表明し対立するようになる。曹操は郭嘉の進言により、両者が争うのを待ってから、その隙を突いて袁家の支配圏を攻略していった。袁譚は曹操と戦うも敗北して殺され、袁尚は幽州にいる次男の袁煕を頼って落ち延びた。袁煕が袁尚を受け入れたことにより、幽州の豪族に反感を抱かれ、結果として焦触・張南ら多くの離反を招いてしまう。結局、袁尚は袁煕とともに遼西烏桓の蹋頓に保護を求めて逃亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白狼山の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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