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白石 勝巳(しらいし かつみ、1918年4月15日 - 2000年12月11日)は、広島県広島市南区皆実町出身のプロ野球選手、監督、野球解説者。 愛称はトラ(眼病のトラホームが由来)。また、アメリカのギャング映画スタージェームズ・キャグニーに顔が似ているため『キャグニー』とも呼ばれた〔『日本プロ野球50年史』 - 1984年、ベースボール・マガジン社発行(ISBN 4583024568)〕より。〕〔『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』、ベースボール・マガジン社、2013年、30-31、102-103頁〕。 == 来歴 == 自宅の近所だった広陵中学に進学し、に強打の5番・一塁手として鳴らし、春の甲子園準優勝〔。翌1936年1月、広陵を四年で中退し創立間もない東京巨人軍に入団。同年夏の茂林寺キャンプでは猛練習でナインを奮い立たせ、以降は不動の遊撃手として巨人の第一次黄金時代に貢献〔〔殿堂一覧 白石勝巳|財団法人野球体育博物館 、白石勝巳 、デジタル版 日本人名大辞典+Plus〕〔広島県勢の“王者”に上り詰めた広陵高 〕。1944年に応召するまでプレーした。 終戦後はにパシフィック、にノンプロ・植良組(別府市)、に再び巨人を経て、郷土に創設された初の市民球団、広島カープ創設に参画〔〔球団創設60周年 ~歴代名選手のレリーフを球場に~ 白石勝巳 〕。弱小球団と呼ばれ続けたチームを牽引し、何度も存続の危機に見舞われたチームを救った〔。創設時の広島では唯一のスター選手で、観客はみな白石を見に行ったとさえ言われる。広島カープ初代背番号1。 、初代監督石本秀一に代わり広島監督に就任(選手兼任監督)。7月7日の対国鉄戦、プロ野球史上最速で通算1500試合出場〔1500試合出場 - 日本野球機構 〕。シーズン終了後に現役を引退し監督専任。に念願の勝率5割を果たし監督退任。1961年から1962年まで球団重役。からシーズン途中まで再び監督を務め、古葉竹識と並ぶ延べ11年にわたって指揮をとり、在任中「王シフト」を考案した。 その後、広島テレビ放送解説者を経て、に三度(みたび)巨人に復帰。ヘッドコーチ・二軍監督として一軍監督の川上哲治を支えてV9に貢献〔。、野球殿堂入り。球界引退後は、横浜市青葉区で余生を過ごす。2000年12月11日、心不全のため死去。。「勝巳」は1950年に改名したもので1949年までは「白石敏男」でプレーしていた〔。 球史に名高い「逆シングル」の守備が特徴の選手だった〔〔〔。一説には、生まれつき右目の視力が弱かったことが逆シングルを編み出す要因になったといわれる〔〔関三穂『プロ野球史再発掘 7 』ベースボール・マガジン社、1987年、93-148頁〕。後述する"茂林寺の特訓"をきっかけにショートの定位置をつかみ、逆シングルを始めるが、当時は両手捕りが絶対で、シングル、しかも逆シングルは誰もしなかったが、できればかなり守備範囲が広くなる〔。もともと一塁手だった白石は普段から逆シングルをすることがあり、ショート守備でもとっさに出た〔。試合で初めてやったのは1939年のフィリピン遠征であるが、球場のファンが大歓声で沸いたため、藤本定義監督も「プロなんだから売りものがあった方がいい」と言ってくれ、本格的にやってみることにした〔。通算失策数はプロ野球史、ダントツ1位の646(遊撃手として636、一塁手として10)であるが〔、当時のグラウンドや道具が粗悪品であり、また、普通なら取れない球を無理して取り悪送球になるなど、「守備が上手いから生まれた失策」が原因といわれている〔。また、初球にどんな絶好球が来ても必ず見逃す打者で、その理由は「もったいなくて、打てへんのじゃ」というものだった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「白石勝巳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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